投稿者: osamu

  • 自分解体新書 - 1 -

    自分解体新書 ~目次~

    ■ 毛髪

    白髪化は順調に進んでいる。

    いや、この場合は順調ではない方が好ましいのだが、本人の意思を無視してニョキニョキと白髪が姿を現す。

    やはり季節要因だったのか、今は抜け毛の量が減っているものの、夏のはじめはシャンプーのたびにモッサリと毛が抜け落ち、それの 80%は黒髪だったのだが、独り言にも書いたように生えてくる髪は白い毛ばかりだ。

    これも独り言に書いたが、実の母や血のつながった叔母にまで
    「去年はグレーで良かったけど今年は真っ白になった」
    などと言われる始末だ。

    実を言うと若い頃は白髪が増えることを望んでいた。

    今は見るも無残に老け込んでいるが、当時はどちらかと言えば童顔で、年相応に見られたことがなく、仕事で人と会って商談などしていても年齢と役職に見合わぬ風貌なのが気になっていた。

    少し白髪も生え始め、それが日を追うごとに頭部全体に広がり始めた頃、ロマンスグレーと呼ばれる色調か、ひと思いに白髪になってしまった方が貫禄があるように見られるのではないかと思っていたのである。

    確かにそう思い、白髪化を望んだ自分がいるのは事実だ。

    しかし、いくら何でも、誰がこれほどの勢いで白くなれと言った。

    今は少しでも黒髪が維持されるよう望んでいるが、本人の意志は完全に無視され、浴室の排水口には黒い毛が渦を巻いて別れの挨拶をしてくれている。

    ■ 眉毛

    高齢になると眉毛にも白い毛が混じっている人もいるが、今のところその兆候はないようだ。

    ただし、毛の量をなんとか維持している頭と異なり、若い頃と比較て眉毛は薄くなってきたように思う。

    ちょっとヤンチャをしていた頃はご多分にもれず眉を剃ったりしていたが、今はそんなことをしなくても薄く細くなってしまった。

    たまに精力の衰えを象徴する極太のオッサン眉毛が鬼のような速度で伸びてくるが、そんな目障りで老化の象徴のような毛は有無を言わさずバッサリと切り捨ててやっている。

    ■ まつ毛

    2007年の10月を最後に、あれから白い毛は生えてこない。

    どうやら白くなった毛は毛根から抜け落ちてしまったようだ。

    数ミリしかなく、たった一本の白い毛だったが、眼球のすぐ近くにあるため常に視界に入り、妙に気になる存在だった。

    右目のさらに右端で光が乱反射し、気になって仕方ないのだが抜いてしまうのは気が引けるという微妙な立場を有する白い奴なのである。

    過去を調べてみると、白い毛が生えたのは 2003年、2007年と 4年周期になっているので、その4年後である来年、2011年に再び姿を現すかも知れないと少し期待したりしているところだ。

    上述の毛髪と同様に毛が白くなるのは銅ミネラルの不足も一因らしいが、子供の頃から貧血気味だったことを考え合わせると自分は銅ミネラルを吸収しにくい体質であり、それと加齢が加わって一気に白髪化が進んだのではないだろうか。

    さりとてこの歳になってから慌ててミネラル補給を試みても、すでに手遅れなのは人から言われなくても十分に自覚していたりするのであった。

  • 秋の味覚

    食欲の秋である。

    夏に食欲がなくなる訳でもなく、年がら年中腹を空かせているので秋になったからと言って特別なことなどないはずではあるのだが、やはり美味しい食材が出回るこの季節になると普段の数倍ほど腹の虫が騒ぎ出す。

    大阪で過ごした 13年と 5カ月間、最初の 2-3年は夏バテし、食事もノドを通らなかった。

    かろうじて体が受け付けるのは冷たい麺類。

    来る日も来る日もソウメン、ウドンを食べていると今度は味に飽きてしまう。

    薬味を変えてみたり、食べ方を変えてみたりしてみたが、とうとう麺の味そのものを体が拒否するようになってくる。

    仕方無しにご飯を無理やり口に運ぶのだが、なかなかノドを通らない。

    味噌汁で流し込むようにしていたが、驚くことに味噌汁でさえ飲み込むのが嫌になり、ついには何を食べたら良いものやら分からない状態に至る。

    色々と試してみた結果、不思議なことに赤だしだけは抵抗なく飲めることが判明し、インスタントではなく赤味噌を購入して毎食の味噌汁を赤だしにして乗り切った夏もあった。

    ある年からテレビの影響で毎日摂取する食べ物が少しずつ増え、その中のどれが効いているのか分からないが、夏バテを一切しなくなった。

    どんなに暑い日が続き、冷房の空気が嫌いで除湿機能だけを利用して 34度前後の室内で生活しようと、滝のように汗が流れて眠れぬ夜を過ごそうと、時間になるとキッチリ腹が減ってモリモリ食べられる。

    食べたそばから食物が熱エネルギーに変換されるのか、食事中は余計にダラダラと汗が流れ、食べ終わる頃にはサウナに 30分間くらい入っていたような状態になるが、それでも美味しく食べられ食欲減退とは無縁の生活を 10年ほど続けていた。

    それでもやはり、暑さが過ぎて秋の気配が漂い、ジメジメとした空気から爽やかな風吹く季節を迎えると、それまで以上に食べ物が美味しく感じられたのは事実だ。

    北海道で暮らしていた頃は本場でなかったことと、若かったこともあって興味を持たなかった食材も、大阪での生活で人に教えられたりして楽しみとなったものがある。

    その一つは栗で、知り合いの方から毎年立派な丹波栗をいただき、美味しく食べていたので北に帰った今も秋になると無性に栗ご飯が食べたくなる。

    こちらでは高級食材店にでも行かない限り立派な栗など一般に流通していないが、天津甘栗程度の大きさの栗であれば店で売られていることもある。

    しかし、その流通量は極めて少なく、限られた店に限られた期間しか売っていない。

    いつもこの時期になると買い逃してはならじと折り込みチラシに目を光らせ、虎視眈々と栗を狙っていたりする。

    以前は流通網がそれほど発達していなかったこともあり、北海道の秋と言えば秋刀魚に秋鮭、ジャガイモにカボチャ、落葉きのこというのが定番だった。

    それらすべては大人にとって嬉しい食材かも知れないが、子供の頃や若い頃は格別のありがたみを感じるものでは決してなく、むしろ地味な食べ物であって食卓にのぼっても喜ぶものではなかった。

    しかし、今となってはそんな食材が美味しく、目の前に並ぶと嬉しくてたまらない。

    先月はいただきものが多く、独り言にも書いたように冷蔵庫に入りきらないほど秋の味覚が充実していた。

    その後に実家から送られてきたのはカボチャ大2個、ジャガイモ3kg、タマネギ3kg。

    まだ一つ目のカボチャを食べきれずにいるところだが、今日の午前中に開催されていたイベントに顔を出し、先着順にもらえるズッシリしたものを受け取って中を見ると、カボチャが1個と 2kgはあろうかというジャガイモ、そしてニンジン数本。

    二人で参加したので当然すべてが ×2だ・・・。

    そんな訳で、我が家の食材はますます充実し、当分は食うに困らぬ生活ができそうである。

  • 時事ネタ 2010/09/25

    なんにも書く事が思いつかないときは時事ネタに限る。

    日本の弱気、腰抜け外交が歴然となった尖閣諸島沖での衝突事件。

    これでは完全に中国の思うつぼだ。

    毅然とした態度を貫けず、あいまいなまま釈放、開放したのでは、
    「ほら見たことか、尖閣諸島は我が国の領土だからだ」
    という中国の主張を強める結果にしかならないだろう。

    善い悪いは別として、中国が強硬に領土権を主張する気持ちも理解できないではない。

    バカでかい国土を持つ中国だが、意外にも海に面した土地は少なく、ぐるりと海に囲まれた小さな島国である日本より海岸線は短い。

    これから爆発的に増えるであろう中間層、巨大化し、増え続ける胃袋を満たすだけの海洋資源、水産資源を確保するのは極めて困難だと思われる。

    少しでも領土を広げて排他的経済水域を確保しておきたいのだろう。

    また、尖閣諸島近辺には海洋エネルギー資源が眠っていることから、ますます手に入れておきたいところなのは間違いない。

    しかし、中国が何を言おうと、何を主張しようと何をゴネまくろうと尖閣諸島は日本の領土だ。

    それだけに衝突事件の船長を処分保留のまま釈放したのはマズすぎる。

    相手の強行な手段、態度に屈してしまうなど、誇りというものはないのか。

    そんな中、日本に誇りを感じさせ、優越感を与えてくれたのはイチロー。

    10年連続200本安打という大記録を打ち立ててくれた。

    昨年の9年連続がすでにメジャー新記録なので、文字通りの前人未踏、イチローの前には誰も踏み入れたことのない世界しかない。

    ウィリー・キーラーという選手が持っていた8年連続の記録は 108年前に樹立されたものらしいが、今後 100年間はイチローを超える選手は出ないだろう。

    イチローは 84年間やぶられることのなかったジョージ・シスラーという選手のシーズン最多安打記録、257本も超えて 2004年に 262安打を放ち、世界記録保持者となっている。

    この際なのでピートローズが持つ 4256本という生涯安打数のメジャー記録も塗り替えていただきたいと思うところだが、日米通算であと 750本くらいなので、今の年200本ペースを維持したとしてもあと 3年くらいかかるし、メジャー成績だけだとまだ 2000本以上も打たなければいけないので約 10年は必要になる。

    イチローは今年で37歳になるので達成するには 47歳まで年間 200本を打ち続けなければいけない計算だ。

    そのピートローズも 45歳まで現役を続けたらしいので決して無理なことではないだろうが、何とかならないものだろうか。

    閉塞感が漂いまくり、政治にも社会にも希望の持てない日本で暮らす中、先ごろ行われた世界柔道で日本は金10、銀4、銅9の計23個のメダルで世界を圧倒したとかイチローが世界記録を更新したなどというニュースは嬉しい限りだ。

    経済でも政治でも、もっと世界で存在感を示していただきたいものである。

  • 記憶 Memory-05

    過去の記憶

    あれは何歳のことだろう。

    まだ幼稚園に入る前、確か三年保育だったはずなので、その前ということは 3歳か 4歳のはじめごろのことだろうか。

    たった数日間のことだと思うが、入院をした記憶がある。

    幼少の頃は小児喘息を患っており、それが悪化したか発作を起こしたために入院する事態になったものと思われる。

    自宅にも吸入器があったが、それでは治まらないほどだったのだろう。

    もちろん人生初の入院、見知らぬところで寝起きするのも初めてのことだったはずだが、両親共稼ぎで一人にされることには慣れていたので、入院を嫌がって泣くこともなかったはずだ。

    むしろ周りに同じような歳の子どもがいるので嬉しかったように記憶している。

    やはり子供用のベッドに寝かされていたのだろうか、記憶している映像には目の前に必ず檻のような柵がある。

    その映像だと6人部屋の病室で、自分のベッドは入り口から見て右列の中央だ。

    左隣り、入口に近いベッドに寝ている子は重い病気なのか、何人もの大人が周りを取り囲んで深刻な顔をしている。

    看護師さんが何度も出入りして慌ただしく、容態も良くないのかも知れない。

    そこに年配の医師が姿を現し、やはり深刻な表情で何かを告げると大人たちはゾロゾロと医師の後に続いて部屋を出て行った。

    場所を移して病気についての説明を受けているのかも知れない。

    大人が周りから居なくなり、ベッドが良く見渡せるようになると、そこには自分よりも小さく、まだ赤ちゃんと呼ぶにふさわしいのではないかと思われるほどの子供が寝かされていた。

    その子の肌が異常な色をしていたのを今でもはっきり記憶している。

    黒と表現すべきか赤と表現すべきか、とても濃い紫色と表現すべきか。

    驚いて目が釘付けになり、ベッドの鉄柵を両手で持ってしばし固まっていたように思う。

    左列の入口近くに居る子は濃いピンクか赤のパジャマを着ていたので女の子だったのだろう。

    ベッドの上に立ち上がり、柵の上から覗くようにこちらを見ている。

    6人部屋だったはずだが、自分を含めてその三人の記憶しかなく、残りのベッドにどんな子どもがいたのか、何色のパジャマを着ていたのか何も覚えていない。

    もしかすると、その3人しか入院していなかったのかも知れない。

    次の日なのか、数日後なのか退院することとなった。

    入院して両親が病室を出る時には泣きもしなかったのに、退院の日には家に帰りたくないと大泣きし、また母親の逆鱗に触れて頭をペチンと叩かれながら病室を後にした記憶も脳の片隅に残ったりしているのであった。

  • The 10th anniversary

    すっかり忘れていたが、この Webページ、正式名称 『大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!』 を開設して 10年が経過した。

    2000年9月1日に公開してから丸10年、雨の日も晴れの日も台風直撃の日も寒波で大雪の日も更新し続けて 10年、今は更新不可能となってしまった新聞折込チラシの情報を 『お買い物日記』 担当者は早朝の 5時に起きて入力していたこともあった。

    JRの線路の西側、東側のチラシを網羅するため新聞 2紙を定期購読するという、なぜ個人運営のサイトでそこまでしなければならないのか今から思えば疑問に思うようなことまでしながら、それがまるで責務であるかのように更新し続けた。

    更新作業を休めるのは新聞休刊日のみだったがその多くは月曜日であり、祭日でもない限りは寝坊することもできず、たまたま振替休日などで休みだったとしても、月曜日はごみ収集日だったので寝ていられる時間は限られた。

    つまり、このサイトを公開してからずっと、文字通り寝る間も惜しんで更新作業を続けてきたと言っても過言ではなく、どんなに寒い日も、猛暑日で熱帯夜の暑い日も、いつもの片頭痛で寝込んでいる時も 『お買い物日記』 担当者は布団から這い出してパソコンに向かっていた。

    サイト開設から 7年と 5カ月目の 2008年2月、望むと望まざるとに関わらず、その生活に終止符を打つ日がやってきた。

    以前の雑感にまとめたように 『お買い物日記』 担当者の兄に重篤な肝機能障害が発生し、それにまつわる様々な事情で大阪を離れることになり、それから様々な思いがあってこの町に住み着くことにしたので千里丘の住人ではなくなり、サイトの運営は困難になるものと思われた。

    継続か廃止か迷ったが、とりあえず senrioka-info.net というドメインが使える 2009年1月までは存続させながら様子を見て、その時期に再度検討することにした。

    いよいよ廃止か存続かを考える時、どの程度の人に閲覧してもらっているのかを解析したところ、閲覧数はまったく落ちておらず、驚くようなアクセス数を維持したままだった。

    もう千里丘で暮らしていないので駅周辺のお店の情報など伝わってこず、出店や閉店があっても迅速に更新することなどできないし、このサイトが必要とされるのか分からなかった。

    今は千里丘の駅から直線距離で約 1000キロも離れた遥か北の大地から、何ら代わり映えのしないダラダラとした生活ぶりを毎日お伝えするという、世にも珍しい 『密着情報』 となってしまっているが、変わらぬ数の人がサイトを訪れ、何かしらの情報を得てくれているようなので、この不思議な状態は今後も続けることにした。

    今後、5年も 10年も続けられるものではないとは思うが、ここを訪れてくれる人がいる限り、ダラダラと、そしてボンヤリと維持していこうと思ったりしている 11年目の初秋なのであった。

  • 日本の明日

    いろいろと迷走し、暴走し、国民を置き去りにしながらの内部抗争勃発で、すでに表舞台から去ったはずなのにチョロチョロと動きまわり、やっぱり何の役にも立たなかった鳩山元首相の不恰好さだけが目立つ民主党だが、結果的には菅直人、小沢一郎による激突は避けられず、代表選挙が行われることになった。

    確かに菅首相が主張したとおり、密室で政治決定されるより透明性の高い表舞台で正々堂々と戦ってくれたほうが見ている側もスッキリするので良かったとは思うが、どうも置き去りにされた感は払拭できず、何のために民主党に政治を託したのか、その意味をあらためて考えさせられたりしている。

    党内での権力抗争、政治決定プロセスの不透明化、意思決定の曖昧さなどに嫌気がさして政権交代したはずなのに、党が変わっても同じような場面を見せられるのでは意味が無い。

    そして、官僚主導を打破して政治主導を標榜した民主党に日本を任せたはずなのに、菅直人政権では歯車が逆に回り始めたのがハッキリと目に見える。

    確かに人気もあり、調整力もあったのかも知れないが、日本のリーダーを務めるには調整力よりも強制力、傲慢なほどのリーダーシップが必要なのかもしれない。

    民主党の掲げた未来像が事実上の骨抜きになり、形骸化してしまったのは官僚のしたたかな工作、地ならしによるものだと容易に想像がつくが、それを最終決定したは総理大臣、つまりは鳩山前総理であり菅現総理だ。

    何となくあやふやで内容はどうにでも解釈でき、官僚の都合の良いようにまとめられた文章や案を承諾した首相が悪いのであり、そこには確固たる信念、国家ビジョンというものが感じられない。

    小沢一郎という政治家を嫌う人は多いし、自分も好きではなく、積極的に応援したいとは思わないが、国が危機的状況にある今、多少は独裁的であったり強引であったとしても力強く日本を明日に向かって誘導してくれる政治家が必要なのではないかと思う。

    小泉純一郎という圧倒的人気を誇った政治家も、やったことのすべてが評価されている訳ではなく、むしろ悪く言う評論家やマスコミは多い。

    それでも国民は支持し、今でも高い人気があるのは、力強く一定の方向に導く力を持っていたからだろう。

    小沢一郎にはどうしてもダーティでグレーな印象がつきまとうが、意志の強さと指導力は小泉純一郎と同等のものを兼ね備えているのではないかと思う。

    マスコミ嫌いで話しも上手ではないが、小泉純一郎よりも明確な国家ビジョンを描いているような気もする。

    影の総理と揶揄され、裏からゴソゴソと手を回したり地下でモゾモゾと動いて影響力を発揮するよりも、一度は前面に出て表舞台で実力を発揮してみてはどうか。

    小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」のを興味津々でながめていたように、小沢一郎が全てを破壊し、新しい政治、日本をつくるところを眺めるのも悪くはない。

    なぜなら、どうせこのままだと日本は崩壊し、外圧によって再生するしかないのだから。

    それくらいなら日本人の手によってスクラップ・アンド・ビルドされるのを眺めるか、そのプロセスに参加して再生の道を自分の手で築いたほうが楽しくて希望がもてるに違いない。

  • スズメのお宿

    行きも帰りも雨が予想される中、なんとか晴れ男の面目を保ったまま帰省の日程を終えることができた。

    田舎に住む母親も叔母も一年間で極端に老けこんだりするはずもなく、さりとて若返るはずなど有り得もせず、何ら変わらぬ姿で昨年も聞いたような話を繰り返し聞かされ、昨日の昼に聞いたような話を今日の夜に再び聞かされるという、実におぞましい光景が繰り広げられていた。

    そこで年老いた母親を小馬鹿にすることなど実に簡単なことではあるが、恐ろしいことに去年の帰省の際に聞かされた話をすっかり忘れており、今年になって再び同じ質問を浴びせる自分もいたりするので、はたから見るとボケの進んだ親子がボケボケの会話をしているとしか思えないことだろう。

    そのすっかり忘れていて問いかけ直した内容は、庭の植木やブロック塀の上でスズメが楽しそうに遊んでいる姿を見ながら
    「ずいぶんとスズメが遊びに来るんだねぇ」
    という他愛もないことであるが、母親の
    「軒下をねぐらにしているから毎日のことだよ」
    という答えでそれが二年連続の質問であることを自覚した。

    そう、毎朝の散歩でスズメを見るのを楽しみにしたりしているが、実家では南向きの窓からボーっと庭を眺めていれば、そこで遊びまわる姿をずっと見ていられる。

    どういう建築法なのか知らないが、軒下がコの字になっており、そこにスズメが一列に並んで夜を明かして朝になるとどこかに遊びに行っては日が沈む前に帰ってくるのが日常らしい。

    いつの頃からか実家はスズメのお宿状態になっているのである。

    眺めていると庭木の枝にとまったり、ブロック塀の上を歩いたり、生垣の中にもぐりこんで涼を取ったりと、何だかちょこまか動いて可愛らしい。

    一応はこちらを警戒しているらしく、夜になってカーテンを閉めるまでは軒下のコの字部分に入ることはせず、外から様子をうかがっている。

    生前の父は、
    「スズメが帰ってくるから早くカーテンを閉めてやれ」
    などと母親に言っていたとのことだ。

    どうやらスズメを見て楽しむのは遺伝らしい。

    母親に何かあったら知らせに来てくれると助かるのだが、実家との距離は直線ですら 250kmほどあるので、それを望むのは無理だろう。

    それならば、せめて一人暮らしの婆さんを癒してやっていただきたいと思っている。

  • テレビ離れ

    テレビ離れが言われて久しいが、その傾向に歯止めがかからずテレビ各局は対策に頭を悩ませていることだろうが、今さら何をしようとも焼け石に水状態であり、超悪循環、負のスパイラルからは抜け出せそうにない。

    そもそも、これほどの末期症状に陥ったのは、症状が顕著化した初期の段階で効果的な対応を打ち出せなかったテレビ局側に全責任があり、まったくをもって疑いようのない自業自得であるから、このままテレビ業界が衰退したとしても理由を他に転嫁することなどできないはずだ。

    しかし、その予兆が現れたとき、業界はテレビゲームの普及を理由にあげた。

    家庭用テレビゲームに興じる人が増えたため、同じ映像装置を使うテレビ放送の受信者が相対的に減ってしまったのだと。

    それからテレビ離れが加速したとき、業界は解を携帯電話に求めた。

    携帯電話を使用している時間の増加とともにテレビの視聴時間が減ったのだから、そこには明らかな相関関係が認められると。

    そしてテレビ離れに歯止めがかからない今も外的要因に解を探る。

    パソコン、携帯電話、家庭用ゲームが普及、BS、CSを含めた他チャンネル化、趣味の多様化によって視聴者の行動様式は分散化傾向にあり、テレビが娯楽の中心ではなくなったと。

    確かに理由の一部としては間違っていないだろうが、全体像としては正しくない。

    衰退の理由を外的要因に求めるのではなく、内に見い出さなければ業界に未来はないものと思われる。

    現在のテレビ局は単に電波を配信しているのに過ぎず、以前のように責任を持って番組を制作することはなくなってしまった。

    企画は吉本興業、ジャニーズ事務所、その他にも大手のプロダクションとか外部組織ばかりで、局内で企画したものなど皆無に近い。

    おまけに番組を撮影するためのカメラマン、音響、その他のスタッフに到るまで外部の人間で構成されており、局側はスタジオを貸しているだけだ。

    外部の手によって企画された番組が外部の手によって制作され、ただ無秩序に電波に乗る。

    とうの昔にテレビ局は番組を制作する能力を失い、単なる電波配信屋さんになってしまっており、魅力的な番組作りなどできるはずもない。

    あまりにも吉本興業やジャニーズ事務所への依存率が高まりすぎた結果、どのチャンネルを見ても同じような番組で、しかも演者は吉本かジャニーズで占められている。

    芸人がワーワー騒いでいるか、漫画が原作の劇をジャニーズ事務所の誰かが演じているか、質が悪く、薄っぺらで通り一遍の取材しかしていない報道番組しか映し出されないテレビを誰が好き好んで見るのか。

    テレビがつまらなくなったのか、テレビの感性についていけなくなったのか考えたこともあったが、それは明らかに前者であろう。

    我が家でもテレビ離れが著しく、最近はどんどん見たい番組が減っており、全盛期の半分以下くらいになっているものと思われる。

    しかし、テレビの前にいる時間が減っているかといえば、多少は少なくなったかも知れないが半分にまではなっていない。

    『独り言』 に何度か書いているように、熱中して海外ドラマを見ているのである。

    作る側も演じる側も真剣にたずさわって完成した良質なものは見ているものを惹きつける。

    それに目をつけたのは良いが、何を勘違いしたのか、単なる安易な発想なのか、日本のドラマでは海外ドラマのストーリーやシチュエーションをそのまま真似したようなものが横行する始末で、もう開いた口がふさがらない。

    堕落したまま何の反省も見られず、日本のテレビ業界が変わろうとしない限り、これからもテレビ離れは進んでいくことだろう。

  • 停電の日には

    ちょっとだけ心配していた台風 4号は北海道に上陸することなくオホーツク海の彼方に抜けて行き、温帯低気圧に変わってそのエネルギーを失った。

    そろそろ台風シーズンなので、これから秋まで 20個程度の台風が現れては日本やその付近を北上するのだろう。

    今と昔にどのような技術的な差があるのか分からないが、最近は台風の影響などによる停電というものがめっきり減ったように思う。

    大阪に暮らしていた頃は年に何度も台風が近づき、そのたびに強風や豪雨にさらされたし、夕立の回数も多かったので何度も大嫌いなカミナリが発生していた。

    それでも大阪で過ごした 13年あまりの間で停電を経験したのは 2-3回ではないだろうか。

    電力各社の努力と技術の発展などがあり、倒れにくい電柱、切れにくい電線が広く使われるようになったのかもしれない。

    北海道の場合は雪の重みで電線が切れることも頻発していたが、今となってはそのような話しを聞くこともなくなった。

    昔は大雪が降っては停電になり、強風で停電になり、事故で停電と、わりと回数が多く、どこの家でも懐中電灯の場所、ロウソクの置き場所は大人から子どもまで把握できていたように思う。

    そして、子どもの頃はロウソクで過ごす時間が妙にワクワクしたものだ。

    しかし、テレビを観ることもできないので退屈で仕方がない。

    親もヒマを持て余しているであろうから、トランプなどをして遊んだりしたかったのだが、ロウソクの明かり程度だと親は 「見え難い」 などと言って遊んでくれない。

    子供の目は暗い中でも良く見えるので支障はないが、加齢と共に性能が衰えつつある眼球では辛いものがあるということを最近になって実感できているところではあるものの、当時は理解できるはずもないことなので遊んでもらえないことがひどく不満だった。

    きょうだいでもいれば暗い中でもそれなりに楽しみを見つけて遊んだりできるのだろうが、幼くして妹を亡くし、一人っ子同然に育った自分は、ただただロウソクの炎の f分の1ゆらぎをジッと見つめているしかなかった。

    そして、普段は何も聞かないくせにヒマなものだから学校のこととか勉強のことを急に親が話しだしたりするので面倒になり、最初はワクワクしていた停電も嫌になって早く復旧しないかイライラしたものである。

    時は流れて社会人になってからは停電の回数も激減したが、何年に何度かは仕事中にバチンッ!と社内の電気が消えることがあった。

    自分の住む世界はコンピュータ業界、この業界は電気がなかったら終わりであり、どんなに優れた技術者であろうと手も足も出ない。

    作業内容はこまめに保存しておかなければいけないということを改めて実感させられる瞬間でもあり、社内が暗くなったとたんに、あちらこちらから叫びとも悲鳴ともつかない微妙な声がもれる。

    ここ数時間分の作業内容が一瞬にして飛んでしまった瞬間だ。

    しばしの沈黙のあと、深い溜息とともに私語が始まる。

    普段はキーボードの音しか聞こえない社内に声があふれ、むしろ人間として正常になったとさえ言える光景が広がる。

    電気がなければ本当に何もできないのがこの業界の弱点で、パソコンを使えない開発者はもちろん、今は手描きの書類など皆無に等しいので営業職、事務職、総務から経理まで一切の業務が止まってしまう。

    停電が長引くと 「どうせ仕事にならないんだからゲームでもするか」 などと言い出す間抜けな奴がおり、パソコンの電源に指を置いたところで電気のないことに気づき、周りの皆んなから大笑いされたりしていた。

    その当時、今は幻となってしまった MSXという規格のパソコンのような玩具のような機器があり、それは乾電池数本で駆動させることができた。

    ゲームもできるその機器で遊ぼうとするのだが、画面は普通のテレビを AV端子入力で使う設計になっているため、電気がなくては映像を映し出すすべがない。

    それでもスピーカーだけは備えていたので、プログラムさえすれば音は出せる。

    名機 MSXを開発者が囲んで精神を統一し、画面を見ることもできないまま頭の中に映像を思い浮かべ、プログラミングしながら音楽を奏でて喜んだり喝采を浴びたりしていたものだ。

    今は携帯ゲーム機でも携帯電話でもあるので退屈はしないだろうが、昔、停電の日には、親子、同僚、人と人のコミニュケーションを深めることができる時間でもあったのである。

  • 記憶 Memory-04

    過去の記憶

    まだ幼稚園にも通っていなかったと思われるので 2-3歳の頃だろうか。

    前回と似たような光景だが、勤めを終えた母親が老夫婦の家に迎えに来たので自転車の荷台の子供用イスに座って帰り道を走っていた。

    異なる点は、それが冬ではなく春か夏、道路脇の雑草の緑が濃い季節。

    周りはまだ明るく風景がはっきりと記憶に残っているので日の長い夏のわりと早い時間だったのかも知れない。

    前から車が来た訳ではない。

    猫や犬が急に飛び出してきた訳ではない。

    なぜだかハンドルを握る母親の手がガクガクと揺れだし、蛇行を始めたかと思ったら自転車は右へ右へと進んで道路から少し低くなっている草むらに向かう。

    もう道路はなくなり、自転車が右に大きく傾いて倒れ始めた。

    不思議なことに、ここから先は超スローモーションの映像として脳に刻まれている。

    バランスを崩して倒れかけた自転車。

    母親は左にハンドルを切って何か叫んでいる横顔が見える。

    自分の左足が高々と上がり、その先には青空が重なって見える。

    右に眼をやると道路より低くなっているところに生える雑草が徐々に大きくなって迫ってくる。

    子どもをかばおうとしたのだろう、体を抑えようと母親の右手が後ろに伸びて右腕を強くつかむ。

    地面に叩きつけられるという恐怖と、握られた腕の痛さが同時にやってきて気絶しそうになる。

    ここからは通常の速度の映像に戻り、ガサガサ、ゴロゴロと雑草の中を転がる自分と母親。

    大量の草がクッションになったのか、思いのほか衝撃もなく、フワフワした感じで着地した。

    そしてヨロヨロと立ち上がり、少し気が落ち着くとズキズキとした痛みが。

    それは、どこかを強打した痛みでもなく、草などでどこかを切った痛みでもなく、母親が力任せに握った右腕の痛みだった。

    ワンワンと泣く自分に駆け寄り、母親は
    「どうしたの?どこか怪我したの?どこが痛いの?」
    と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

    正直に握られた腕が痛いと言うと、母親はムッとして
    「お母さんが助けたから怪我もしなかったんだからね」
    とか
    「男の子なんだったら少しくらい我慢しなさい」
    などと言いながらズンズンと斜面を登って自転車にまたがった。

    心の中で
    「こんなにやわらかいなら何もしなくても怪我なんかしない」
    などとブツブツ文句を言いつつも、そんなことを口に出そうものならゲンコツが飛んでくるのは火を見るより明らかだったので黙ったまま自転車の後ろに乗った。

    それから長い間、父親や叔母、近所の人達に話をするたびに
    「私が守ったから」
    的な発言を繰り返していた母親のそばで
    「違うって」
    と心の中でささやかに突っ込んでいたりする日々が続いたのであった。