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  • スーパー女子高生 mayu

    以前にも書いたとなりの店は、ご両親と兄妹、そして妹ちゃんには娘がいるので 5人家族だ。

    妹ちゃんは関東で暮らして結婚し、出産のために北海道に帰ってきている間に旦那さんが別の女性と深い仲になってしまい、帰って来なくて良いなどと訳の分からない理不尽なことを告げられ離婚したという過去を持つ。

    美容の技術を身に着けたのは、それより以前なのかそれ以降なのか分からないが、親の跡を継いで繁盛店にしているのだから、甲斐性なしの男と不毛な生活を続けているより結果的には良かったのではないだろうか。

    そんな事情で父親がなく、一般的な家庭とは異なる休日体系で土日も祭日も大型連休もなく、朝から晩まで忙しく店を切り盛りしているので母親と接する時間も短いという環境で育てば、多少は反抗的になったり非行に走ったりしてもおかしくはないが、妹ちゃんの娘は実に素直で可愛らしく立派に育っている。

    この4月で高校三年生になった彼女の名はマユちゃん。

    顔を合わせればニコニコ笑顔で挨拶してくれる。

    自分が中学、高校くらいの頃、周りの大人はすべて敵だと思っていたので挨拶もしなければ、ろくに目も合わさなかったし笑顔を見せることなど皆無だった。

    たまにおすそ分けなど持ってきてくれ、
    「戴き物なんですけど良かったらどうぞ」
    などと、きちんと会話して帰っていく。

    自分は近所の人と関わりたくなかったし、上述したように口もききたくなく、そもそも親の言うことなど聞くはずもないので、おすそ分けなど持って行くことなど有り得なかった。

    以前、帰省のためしばらく家を空けることを 『お買い物日記』 担当者が伝えに行くと、大人たちは店が忙しかったのか対応してくれたのがマユちゃんだったのだが、なんと話しの最後に
    「気をつけて行って来てください」
    と言ってくれたと感動しながら帰ってきた。

    これが同じ頃の自分であれば、
    「はい」
    とか
    「はあ」
    せいぜい
    「わかりました」
    くらいの単語しか発しなかっただろう。

    客商売をしている家庭に生まれた子なので先天的に社交性や話術に優れているのかもしれないが、少なくとも自分以外に当時の友達関係まで対象を広げてみても、たとえ真面目人間だったマサルであっても、それほど気の利いたセリフは言えなかったと思われる。

    去年の今頃には
    「イチゴ狩りに行って来たので食べてください」
    と、山盛りのイチゴを持ってきてくれた。

    繰り返しになるが、自分はおすそ分けなど近所に持っていかなかったし、親とイチゴ狩りなんぞ真っ平御免であり、行動を共にするなど考えられず、たまの外食ですら誘いを断ってお金だけ受け取って一人で買い食いしていたものだ。

    そして今年の二月、なんとマユちゃんはバレンタインチョコまで持ってきてくれた。

    義理チョコ、友チョコ、自分チョコなど手作りしたと言うことなので、それを手伝っていた妹ちゃんにでも
    「隣のオジサンにも持って行ったら?」
    などと言われたのだろうと思っていたのだが、実は一人で黙々とチョコを作り、自己判断で我が家の分まで作ってくれ、自主的に持ってきてくれたということが後に判明した。

    そんな女子高生が世の中にいるだろうか。

    なんと立派で思いやりがあり、心優しい女の子なのであろう。

    小さい頃から書道をたしなみ、今では人に教えられるほどの腕前であり、同じく幼少の頃から英会話を習い、日常会話に支障がないほどの英語力が身に付いている。

    だからと言って見るからに大人しそうなお嬢様タイプではない。

    キラキラした笑顔の持ち主ではあるものの、流行のファッションに身を包み、髪を少し茶色く染めて学校の先生に叱られるという、今どきの女子高生だ。

    ジャニーズの嵐のファンであり、コンサートチケットを手に入れるためにファンクラブに入会し、それでも入手困難なものだから母親である妹ちゃん、挙句の果てには孫の魅力を存分に発揮してお爺ちゃんまで入会させるという荒業を使う。

    「もうみんなが持っているから」
    という実に子供っぽいごまかしで、普及率が30%にも満たないスマホをまんまと買ってもらったりもしている。

    そんな面がありながらも自分というものをしっかりと持っており、ユネスコ交流事業で公募された作文審査で合格した全国 12人のうちの 1人に選ばれ、ドイツに行って英語でスピーチすることになった。

    とにかく同じ年頃だった自分なんぞ比較するのも恥ずかしく、それに値しないほど良くできたスーパー女子高生なのである。

    しかし、本当に残念なことであるが、マユちゃんはドイツに行くことが叶わなかった。

    なんと不運にも流行していたインフルエンザに感染してしまったのである。

    スーパー女子高生のマユちゃんも、病気に勝てなかったのであった。

  • 自転車新調

    昨日の独り言で 『お買い物日記』 担当者が書いているが、二人そろって自転車を購入した。

    大阪で暮らしている時、いずれは北海道に帰るのだから数年しか乗らないだろうと今は無きレンタサイクルのマイケルにて中古で購入したものだが、そのまま 10年ほど経過し、さらには北海道まで連れて来られた働き者の二台とは実に長い付き合いだった。

    一昨年あたりから 『お買い物日記』 担当者の自転車がキコキコと異音を発するようになったり、自分の自転車は後輪のベアリングが欠けたようで、たまにチェーンの噛み合わせがおかしくなったりし始めたので近所の自転車屋さんに見てもらったところ、耐久年数を越えた経年劣化なので仕方がなく、部品をまるごと交換するしかないという。

    それにはそれなりの金額を要するとも言われたので、新しく買ったほうが結果的に安く済むのか尋ねたところ、古い自転車でも元々は立派なものであり、最近になって広く出回っている海外生産の安物とは比べ物にならないくらい高品質なので、同等の乗り心地を得ようと思えば 5-6万円はするのだそうだ。

    そんなに良い物であれば安易に手放すのもどうかと思い、だましだまし乗ってはいたが、いくら国産の高級品であれ経過年数にはかなわず、やはり使用には限界なのではないかと思わるようになってきた。

    そんなとき、近所の大型スーパーの会員特典で国産のものが安く売られることを知り、いよいよ買い替えの時期がやって来たと判断したのである。

    メーカーがブリジストンではあるが、今の時代だと部品製造から組立まですべて中国かベトナム、タイあたりでやっているだろうから今まで乗っていた自転車と同等の品質、乗り心地は期待できないかもしれないと思いつつも、せっかくの機会をのがすこともあるまい。

    一応はネット通販で同等製品の価格を調べたが、どこよりも低価格だったので購入を決定した。

    それが入荷したと一昨日の午後に連絡があったので、昨日になって受け取りに行き、それまでの自転車を引き取ってもらってきたのである。

    さすがにチェーンも車輪のベアリングも新しいのでベダルを踏むと軽々と進み、足への負担が少なく、そろそろ体力も落ちている我が身にとって小さな力で大きな動力を得られる省エネ的乗り物は実にありがたかったりする。

    それにしても以前の自転車は色々とがんばってくれた。

    とくに 『お買い物日記』 担当者は、毎日の買い物、町内会の仕事で近所を走りまわっていたので足となって一緒に働いた自転車への思い入れも深いだろう。

    夏の炎天下、冬の木枯らしが吹く中、早く遠くまで運んでくれたものだ。

    この周辺情報でカバーしているエリアのすべてをかけ回り、それ以外にも今はイオンとなっている旧マイカル、万博公園を目の前にした毎日放送学園町のユニクロなどにも行った。

    JR岸辺駅など近いもので、月に一度くらいのペースで吹田のモスバーガーまで行ったりもしていたものである。

    色々と思い出深い自転車だったが、老朽化には勝てない。

    以前の持ち主と合わせると 20年くらいは働いたと思うので、今はゆっくり休んでいただきたいと心から願っているところだ。

  • 流通業の台頭

    大型スーパー、コンビニを代表とする流通業が販売力にモノを言わせて川上である卸売業者、その上流である製造業、メーカーの体力を奪い続けている。

    最近ではテレビやネットの通販も力を持ち、価格競争は激化するばかりだ。

    消費者としては安く変えるのは嬉しい限りだが、このデフレスパイラルをどこかで断ち切らない限り、最終的には国力を弱めて日本全体が沈んでしまう。

    かつての日本では定価販売が常識であり、開発費、宣伝費、人件費、利益などを考慮して発売する側が価格を決定していたが、価格破壊のパイオニア的存在で全国を席巻したダイエーの創業者である中内功氏が 「価格の決定権は消費者にある」 と定価販売をやめて安売りを始めた。

    物に対してお金を出すのではなく、物の価値、その物によって与えられた利益に対して支払う報酬、つまり定価ではなく対価ということであり、それ自体は評価、賞賛すべき考え方である。

    しかし、ビジネス規模が拡大し、他店を凌ぐ販売数を誇るようになると庶民の味方という当初の理念を見失い、流通業自身が価格決定権を持っていると錯覚し始める。

    卸売業者やメーカーにぞんざいな態度をとり、商品の展示から棚卸まで手伝わせてみたり、商品販売までさせて自社では人件費を使うことなく利益を得ようとする始末だ。

    そして、最近になって強く危惧しているのは、以前の雑感にも書いたことのあるプライベートブランドと言われる自社製品の商品化があまりにも早まってきていることである。

    消費者にとって同じ機能であれば価格が安い商品が売られるのは嬉しいことではあるが、それはメーカーの体力や活力をジワジワと奪っていることであるとその雑感に書いたが、その後もプライベートブランドは増え続け、その商品投入のスピードは早まり続けている。

    少し前に電子レンジで魚が焼けるという使い捨てのパックが発売され、その利便性と話題性から大ヒット商品となったが、それほどの間を置かずして大手スーパーのプライベートブランドで全く同じような商品が発売された。

    最近ではジュレ(ゼリー状)タイプのポン酢が人気になったが、もうすでにプライベートブランドで商品化されている。

    先の雑感で書いたように研究開発に膨大な時間を要し、企業や社員の努力の結晶で商品化されたものが、その人件費などを含めた費用を回収する前に価格競争に巻き込まれ、先行者利益を享受する前に薄利多売せざるを得なくなるのは健全なことではない。

    繰り返しになるが、消費者としては良いものが安く手に入るのは嬉しいことだ。

    しかし、それに慣れてしまって値上げ許すまじという考えから抜けだせずにいると、卸売を含めた中間業者、製造業、メーカーの利益ややる気を奪い、画期的な良い商品が生み出されなくなってしまう。

    そして各業種の経営を圧迫し、労働賃金の低下、人員整理、企業倒産、失業率の悪化、雇用不安、就職難が延々と続く負のスパイラルにおちいる。

    消費者、庶民の味方という名目で台頭している流通業だけ利益を得られれば良いというものではなく、適正な量を適正な価格で販売し、経済を活性化しなければ日本という国は悲惨な末路をたどり、最悪の結末が待っているのではないかと思う。

  • 記憶 Memory-09

    過去の記憶

    生まれたときは社宅暮らしだった。

    その社宅というのは名ばかりの長屋に住んでいたというのに夜中になれば少しの物音で目を覚まして泣き叫んだり、体が弱く病気がちで具合が悪いものだからビービー泣くという、まことに手のかかる子どもを持った両親は、壁が薄く隣近所に迷惑をかけているのではないかと気を揉む毎日だったという。

    そこで、共稼ぎと言えども安月給だった若夫婦は一念発起し、壁越しの隣人に気を使わなくて良い一軒家を建てることにしたのであった。

    それは自分が二歳を過ぎた日のことで、それがどれほど迷惑をかけた結果であるか、それがどれほどの決断であるかも知らず、アホ丸出しで 「わーい」 と単純に喜んで走り回っていたらしい。

    当時は今のような工法が開発されておらず、昔ながらの大工さんが昔ながらの方法で基礎から地道に固め、ゆっくりとしたペースで建設されていった。

    今でこそ一カ月や一年などあっという間に過ぎ去ってしまうが、ニ歳児の感覚では一日すら長く、一時間もあれば様々な遊びができたくらいなので、着工から完成までひどく長い時間が経過したように記憶している。

    時間経過がゆっくりと感じられる子どもにとって式典などというのは退屈の極みであり、いつまでも延々と続く空間で大人しくしていろということ自体が無理な相談というものだ。

    棟上げまで工事が終了した際にとり行われる上棟式も子どもにとっては過酷な我慢大会のようなものであり、つまらない大人の話しを聞いてなどいられない。

    人の多さに圧倒されて静かにしているのも 10分くらいなもので、それを過ぎると周りをキョロキョロ見渡したり、大工道具に興味を持ってチョロチョロと動きまわったりし始める。

    神妙な顔をした母親が目だけ鬼のように釣り上げてこちらを見ていたが、大勢の前で叱られることもあるまいという子どもなりの打算も働き、目を合わさないようにしながらコソコソと一人遊びをしていた。

    それにしても長く、一人で遊ぶことにも飽き、そろそろ我慢も限界に達しようとしていた時、その場にいた全員が起立して何かが始まったようだ。

    さすがに自分のいるべきところに戻ったほうが良いのではないかと思い、両親の姿を探したが背の高い大人が全員立ち上がって狭い空間に密集していると顔を確認することができない。

    人をかき分けて進み、必死になって探していると見覚えのあるスカートと大きな尻が目に入った。

    無事に母親の元へとたどりつけた安心感と、勝手に遊んでいたくせに放っておかれたというねじ曲がった怒りが心の中で交錯し、ムカムカと腹がたってきた。

    そして、ここで思いっきりパーン!と尻を平手打ちすれば、さぞかし母親は驚くだろうし、それを見たまわりの大人たちの笑いが取れるのではないかという考えが頭をもたげ、その衝動を抑えることができなくなってくる。

    心の葛藤は何秒間くらい続いただろう、ついに悪魔のささやきが心を支配し、ジリジリと目の前の尻に近づいて狙いを定め、ありったけの力で尻をひっぱたいた。

    空間に響き渡るパーーン!という音と聞いたことのない女の人の悲鳴・・・。

    なぜそう思ったのか今となっては分からないが、その尻のでかさとスカートの色だけでそれが母親であると確信し、疑問を挟む余地など全くと言っていいほど生じなかったのだが、その尻の持ち主は明らかに別人だったのである。

    その後、上棟式は大混乱におちいり、母親からこっぴどく叱られることになってしまったのは言うまでもない。

  • 自己責任

    長崎県でとても残念な警察の不祥事が起こってしまった。

    被害届の受理を先延ばしにした理由が北海道への慰安旅行で、それをひた隠しにするどころか事件の検証開始直後に慰安旅行の事実を把握していたにも関わらず、その日のうちに 『問題なし』 と結論づけていたというものだ。

    確かにストーカー事件の扱いは難しい。

    妙な男に好意を持ち、積極的に自分に近づけたというのであれば多少は自己責任を問われる部分もあるかも知れないが、ある程度の付き合いをしなければ相手のことは分からないのだから仕方がないだろう。

    ましてや好意もなく、また知り合いでもないのに一方的に付きまとわれ、身に危険が迫るまで事実を把握できなかった場合などは被害者に何の落ち度もなければ責任を問われることもない。

    長崎ストーカー殺人事件はインターネットサイトでの出会いが発端となっていることも被害者にとって不利に働いた可能性も否定できないものと思われる。

    出会い系サイトで犯罪に巻き込まれるケースが後を絶たないのは周知の事実であり、それにも関わらずそんなサイトを閲覧したり、そんな場所で知り合ったからといって実際に会ったりするのは認識の甘さゆえのことだという意識が働くこともあるだろう。

    確かに自分のように保守的な臆病者からすると、たかがネットで何度かやり取りした程度の人と実際に会うなど信じられないことであるし、余程の度胸があるか何も考えていないか思慮が浅い愚かなことだとは思う。

    しかし、実際に起ってしまったことをやり直せはしないし、これを教訓に二度と軽々しい行為は行わないと深く反省もするだろうから身に及んだ危険を回避してやるべきだったことは間違いない。

    自己責任、自業自得と思われることは多くある。

    何年か前に殺人事件の被害者になったのは 16歳の女子高生で、犯人を憎んだし将来のある子どもが死に至ってしまったことを悲しむ気持ちもあったが、事件の経緯が明らかになってくると夜中の 2時に外出して男性と歩いている姿が防犯カメラに写っていた。

    そうなると少し事情が違い、そんな時間にフラフラと遊んでいることが大きな問題だと思うようになってしまうが、それでもやはり、人を殺めた犯人が悪いのだから罪を裁かれるべきだし捜査当局は全力で捜査すべきだ。

    理論的に有り得ないような配当金につられて訳の分からない案件に投資し、詐欺行為だと分かると急に被害者然として巧妙な手口にだまされた哀れな人間を演じ始める人たち。

    誰がどう考えても信じ難く、明らかに嘘だとわかるような話に乗せられて金を出すということは、余程お金に余裕があるか欲の皮が突っ張っているのだと思ってしまう。

    しかし、それでもやはり人をだます犯人が悪いのだから、捜査は行われるべきだし犯人は罰せされるべきである。

    話を元に戻して長崎ストーカー殺人事件では、マスコミは被害届の受理を先延ばしにした警察を総攻撃して習志野警察署長が事実上の更迭となったが、その論調をまともに受けてはいけないような気がする。

    たしかに怠慢だと言われても仕方がない事実ではあるが、受理を一週間延ばしたことが引き金となって事件が起こった訳ではないと思うからだ。

    間違いなく昨年の12月6日に受理を見送っているが、3日後の9日には当時ストーカーの犯人だった容疑者に警告を発し、実家に連れ戻すということはしている。

    その後、14日に届けを受理したタイミングと容疑者が実家から姿を消したタイミングが重なってしまい、その2日後の 16日に殺人事件が発生したので問題がこじれてしまった。

    仮に 6日に被害届を受理していたとしても、それがストーカー行為に対する被害届であれば、警察にできることは 9日に行った警告と同様のことでしかなかっただろう。

    実際に危害を加えられたりしていなければ現状の法律では逮捕したり身柄を拘束したりすることはできないのではないか。

    被害届を受理しても受理していなくても、やれることは同じで少なくても9日に警察はやれる範囲のことはしている。

    つまり、6日に受理していたら今回の犯行を防ぐことができたのか疑問であるし、それが引き金となって犯行が行われた訳ではないように思う。

    警察の落ち度を全面否定する気はないが、いかにも警察の責任で事件が起こったかのような報道をそのまま鵜呑みにするのは避けるべきではないだろうか。

    マスコミの報道をどう解釈するかも自己責任ということである。

  • プチ整形

    男性 3人を練炭自殺に見せかけて殺害したなどとして殺人の罪などに問われている木嶋佳苗被告の裁判に注目が集まっているが、それと同時にあの容姿でなぜ次々と男性を手玉に取れるのかということが週刊誌やネットで話題になっている。

    かなり以前の雑感に書いたように自分は女性の容姿にまったくと言っていいほどこだわらないが、それでも木嶋被告が十人並み以上であるとは思っておらず、彼女の何を持ってして食虫植物に虫が集まるようにフラフラと男性が吸い寄せられるのか理解することができない。

    きっと話術なり何なりが巧みであり、男性をとりこにする魅力があって自分の武器を理解し、それを最大限に活かすすべを心得ているのだろう。

    新聞広告の見出ししか目にしていないが、女性週刊誌もその点を取り上げて記事にしているのではないかと想像する。

    少し前まで女性週刊誌、ファッション誌ではプチ整形に関することが多く取り上げられ、無料で美容整形クリニックの宣伝をしてプチ整形の一大キャンペーンを繰り広げているかのようだった。

    韓国で施術してもらうのが低価格であり、技術的にも申し分ないなどと人気が高まって団体で訪韓するツアーまで企画される勢いで、単なる団体整形手術旅行を美容ツアー・メディカルツーリングなどとちょっとオシャレな言い回しに変えて参加者を募る。

    企画した業者の採算が合うのだから相当数の人が参加し、韓国で施術して出国した時とは異なる顔になり、以前の顔面写真が貼られているパスポートを提示して帰国しているのだろう。

    いくらプチ整形でメスは使わないといっても顔や体に手を入れることには変わりはなく、コストだけを重要視して海外で施術してもらうと顔が大きく腫れあがってしまったり、ひどい痛みをともなったりした場合の事後処理に困難をきたすことになるので、施術面や保証面などを入念にチェックしてから参加すべきで、すべてツアーを企画する業者任せにしては危険だと思うのだが。

    韓国は美容整形に関して実にオープンであり、多くの人が施術を受けているという。

    確証などないが、最近になって極端に露出の増えた韓流スターの顔がどれをとっても同じように見え、誰が誰なのか区別がつかないのは医療技術によるものなのかも知れない。

    マスコミの一大キャンペーンによって日本でも美容整形、プチ整形は珍しいことではなくなり、就職の際に面接官に対して好印象を与えるという理由だけで施術を受ける人もいる。

    それが新卒だけでなく、オッサンの転職でも同様だというのだから驚きだ。

    くたびれたふけ顔で面接にのっそり現れるより、少し若々しくなってさっそうと登場するほうが印象も受けも良いかも知れないが、そんなことのために整形するなど時代も変わったものである。

    昔は整形手術をしたいなどと言おうものなら 「親からもらった体に傷をつけるなんて」 と非難され、人にはそれぞれ持って生まれた身体的特徴があり、個人はその外見と内面がバランスしているのだから見てくれだけ変えても仕方がなく、もっと内面をみがくべきだと説得されたものだ。

    ところが今は気に入らないなら変えてしまえば良いという考えが大勢を占めているのか、いとも軽々しく整形してしまう。

    親も親で我が子が顔や体に手を入れようとするのを止めないどころか、ついでに自分もシワの目立ち始めた顔を何とかしようと親子そろって病院を訪れることもあるらしい。

    近年、過去には理解できなかった犯罪がおこるたびにゲームの影響が指摘され、人生に行き詰まったからといってリセットできたりやり直せたりできる訳ではないと偉そうに言うやつがいるし、それに深くうなずく大人もいるが、何の罪悪感もなく気に入らない箇所に手を入れて修正してしまえば良いという短絡的な考えは果たして正しいことなのか。

    脱毛とか整形には中毒性があるらしく、度が過ぎると全身の毛が不必要だと感じるようになったり、顔のパーツが 1ミリ単位で気になり、整形を繰り返すようになったりすることもあると聞く。

    近い将来、整形のやりすぎで顔面が無残に崩壊してしまい、もう手術不能になる人が激増しないことを心から祈るばかりである。

  • その後

    日本のマスコミは騒ぐだけ騒いで危機感をあおるが、その後に関しては何も知らせてくれない。

    最近では岡山県倉敷市で起きた製油所の海底トンネル事故だが、連日連夜、あれだけ大騒ぎしていたにもかかわらず、徐々にトーンダウンしたかと思うとさっぱり音沙汰が無くなり、6日前の 3月 4日に最後の不明者となっていた人の遺体が収容されたことなど扱いが小さすぎて知らない人のほうが多いのではないだろうか。

    島根で2009年に発生した女子大生のバラバラ殺人事件も大騒ぎになったが、今では覚えている人も少ないだろう。

    マスコミの責任ばかりでなく、日本人は熱しやすく冷めやすい上に飽きっぽく忘れやすいという国民性を代々受け継ぎ、DNAに深く刻み込まれているので致し方ないという側面はあるにせよ、だからこそマスコミが事件や事故を風化させないように努めるべきではないだろうか。

    悲惨な事件や事故だけではなく、生活レベルの話題に関しても報道が尻切れトンボ状態で、その後がどうなっているのか分からないことが多い。

    テレビが昨年7月24日にデジタル放送への完全移行となったが、その直前には完全デジタル化によってとんでもない数の地デジ難民が発生すると大騒ぎし、地デジ化を延期すべきだと声高に叫ぶ団体やマスコミがいたが、いったい現状はどうなっているのだろうか。

    本当に地デジ難民が大量発生しているのであれば、彼らは今、どれほど不便な思いをしているのか、電波が届くようになる目処はあるのか、対策は講じられているのか、何も情報が伝わってこない。

    経済的な理由で地デジ化を進められない人のことを考慮し、支援するための制度が作られWebページを公開しているが、チューナーを無償給付したところで屋根の上のアンテナが地デジ用になっていなければ意味がないだろう。

    むしろアンテナを購入して取付工事してもらうほうが数千円のチューナーより高額になるのは当然のことであると総務省の役人は気づかないのだろうか。

    また、経済的に困窮している人がパソコンやスマホを持っているとは思えないのでWebで告知しても意味を成さないものと思われる。

    新聞の定期購読をしていない場合も多いと思うので広告やチラシも効果は薄いのではないか。

    そうなると国が責任をもって生活保護などを受けている人に告知するなど何らかの対策をしなければ、地デジ難民の正確な数すら把握できないような気がする。

    2008年4月に東京都杉並区が打ち出したレジ袋税(環境目的税)を発端として一気にレジ袋有料化が進み、今では全国のスーパーが有料化しているし、マイバッグを利用するとポイント優遇などの特典が得られる仕組みを導入している店や企業もある。

    それによってどの程度のゴミ削減になったのか、どの程度の石油が節約されたのか、どの程度のCO2削減になったのか、スーパーはどの程度の経費削減になったのか、マイバッグの販売でどの程度の経済効果があったのかなどを誰もレポートしてくれない。

    今はレジ袋が有料だと言われて誰も文句は言わないし、マイバッグを持参して買い物をするのが当たり前の時代になった。

    一般市民は時代の流れに乗り、少しは環境のことも考えて行動しているのに、結果がどうなったのか誰も責任をもって検証しようとしないのはなぜなのか。

    本来であれば環境省あたりが調査して結果報告すべきだと思うが、役人など誰もあてにはしていないので騒ぐだけ騒いだマスコミが責任をもって尻拭いまですべきだろう。

    明日で東日本大震災から丸一年が経過する。

    まだまだ普通の生活を取り戻せない多くの人がおり、原発事故はまだ収束にすら向かっていないというのに区切りであるこの時期にしか情報が伝わらなくなりつつあるのは良い状況ではない。

    被災当事者が取り残され、他の人達だけが普通の生活を取り戻して防災意識や被災者支援の意識が薄まってしまっては意味がないだろう。

    くだらない報道や人権侵害スレスレの見ていて腹立たしい取材をする暇があるならば、東北の人たちの現状を、できることなら全ての人が普通の生活を取り戻せるようになるまで伝え続けていただきたいものである。

  • 身土不二

    身土不二(しんどふじ)という言葉は、人の命と健康はその土地とともにあるという考え方を表しているらしい。

    食事はその土地、その季節の食物を基本にすることを良しとする、いわば地産地消の発想だ。

    北海道から離れて大阪に住み、久しぶりに帰ってくるとしみじと地元の味、ふるさと食のありがたさや美味しさを再認識することができる。

    海の幸、山の幸を問わず、それらを体が要求していたらしく、懐かしさや美味しさとともに骨の髄まで染み渡るような感覚、しびれにも似たような何とも言えない幸福を感じつつ腹を満たす。

    大阪で暮らし、今まで見たこともないような魚介類を食べることができたのはとても良い経験ではあったが、焼いて食べたら良いものか煮て食べたら良いものかすら分からず、戸惑いも大きかったのは事実だ。

    そして、それはそれなりに美味しく食べていたのだが、やはり生まれ育った土地で採れた作物や海で捕れた魚介類を口にすると、遺伝子レベルで脳や体が味を覚え、必要としていたのだと思ってしまうほど美味しさを感じる。

    それは水や空気にも共通することであり、正直に言うと大阪での生活は何か圧迫されているようなズシリと重い空気を吸い、北海道と比較すると硬質で重い水を飲む毎日で、心身ともに健康だったとは言い難かった。

    こちらでの生活を始め、空気も水も、そして食べ物も地元のものを摂取すると、心身ともに浄化され、体の内側から再生されていくような感覚を覚える。

    それというのも北海道が自給率 200%の食の宝庫であり、余程の季節の乖離がない限りは道内産の野菜や魚を食べることができるのが幸いしているのは確かだ。

    感覚的に、大阪では地元産のものが 10%以下、国内産のものは 30%以下、その他はすべて輸入物だったように思う。

    ところが北海道では地元のものが 50%、国内産のものが 30%、残りの 20%が輸入物といった感覚だ。

    それだけ食べ物が豊富で、いつも新鮮なものを食べられるのだから、その味が脳や体に染み込んでいるのも当然のことかも知れない。

    そして、美味しさだけではなく地元の海で育った魚を食べ、地元の土と水で育った作物を食べると健康状態も良好に保つことができるような気がする。

    もちろん、それなりに歳を重ねてしまったので体のあちらこちらにガタがきてしまっているが、少なくとも胃腸や精神面は実に安定しており、おだやかな毎日を過ごせているのは食生活が充実しているからではないだろうか。

    仕事でイライラしたり、多少なりともストレスを感じたとしても、美味しい物を食べて美味しい空気を吸っていれば精神的に安定するし、深く思い悩むこともない。

    ただ一つの欠点は、あまりにも美味しすぎて、つい食べ過ぎてしまうことだ。

    禁煙したことも要因の一つだろうが、北海道に帰ってきてから 10キロも太ってしまった。

    それでもふるさと食は、心と体に栄養を与えてくれる実にありがたいものなので、食事の量を減らすこともなく美味しく食べる毎日を過ごしたりしている。

    - 参考 -
    ふるさと食の効用(その1)
    ふるさと食の効用(その2)

  • デジタル化の波 Signal-11

    デジタル化の波 ~目次~

    携帯電話やプレーヤーにダウンロードして音楽を楽しむようになったのは最近のことだ。

    ドンと花火が上がって実際に普及するまで 5年ほどかかるのが世の常。

    Apple社の iPad、amazonの Kindle、その他タブレット型端末の普及によって電子書籍に注目が集まっているが、普及が進んで一般化するには同じように5年ほどの歳月を要するだろう。

    しかし、その流れは確実なものであろうから、音楽業界で起こっていることと同じようなことが 5年遅れで出版業界にも起こり得る。

    紙媒体はなくならないと言う業界人は多い。

    確かにそれは的を得ており、音楽業界と同じ道はたどらないだろう。

    第一に文章を快適に読むためには一定以上の大きさを必要とするため端末は携帯性に乏しく、それを万人が持ち歩くかという疑問が残る。

    音楽の良いところ、業界にとって不幸だったのはプレーヤーが劇的に小型化されて持ち運びに不便を感じないところであり、今や誰しもが持ち歩く携帯電話への組み込みも容易だ。

    ところが現在普及期に入ったスマートフォンでさえ、画面の制約から電子書籍を閲覧するのには不向きで、電子書籍を見るための端末は別に持たなければならない。

    逆にタブレット端末に音楽再生、通話機能、カメラ機能を組み込んだとしても、それは極端に使い難くいものになってしまうだろう。

    音楽を聞くのを主目的に持ち歩くには大きすぎるし、あんなに大きな物をかざして写真撮影をするのも間が抜けている。

    あんなものを耳に当てて通話するのは不恰好なので、いちいちイヤホンやヘッドホンをしなければならないものと思われる。

    つまり、電子書籍端末と電話や音楽プレーヤーを一体化するのは難しいということで、さらには持ち運びが容易ではないという点を考え合わせれば、省電力化と軽量化、折りたたみが可能な有機ELの低価格化が進むまで普及期には移行しないのではないだろうか。

    しかし、やはり確実に電子化は進むはずなので、出版業界、書店のありかたは今から音楽業界を手本に準備を進めておいたほうが良いだろう。

    音楽に続いて映像は完全にデジタル化が進んでいる。

    日本のテレビ放送は震災による影響を考慮した一部地域を除いてデジタルに移行した。

    デジアナ変換器を利用している人もいるだろうが、多くの家庭ではデジタルテレビを購入したものと思われる。

    我が家も家電エコポイント制度の終了間際に慌ててデジタルテレビを買ったが、最近になってやっと使いこなせるようになってきた。

    当初から天気予報を表示してみたり、番組情報を閲覧したりしていたが、今は LANケーブルを接続して家庭内ネットワークに組み込み、テレビのリモコンを操作してインターネットに接続したりして楽しんでいる。

    とても便利に使っているのはパソコンに保存してある音楽の再生だ。

    CSテレビの音楽番組の音だけ聞いていることも多いが、たまには好きな曲を聴きたくなり、そんな時はテレビを操作してネットワーク接続しているパソコンに保存してある音楽を再生し、サラウンド対応のスピーカーから音を出して画面だけ消す。

    お買い物日記』 担当者と二人で聴くために自分のパソコンから音を出したのでは音が大きすぎるが、そうすればパソコンのスピーカーから音を出すより高音質であるし、部屋中に音が広がる。

    インターネットに接続すれば、オンデマンドでいつでも好きな時間に映画が見られるのも便利だが、レンタルビデオ店より高価格なので利用はしていないし、CSテレビで海外ドラマを見たり映画もたっぷり録画してあるので我が家ではあまり必要性を感じていない。

    そして今、スマホを手にしてしまったものだから、天気予報も番組情報も最新ニュースもすべて手元で見られるようになったのでテレビの情報表示は使わなくなってしまった。

    家の中で使う際は Wi-Fi経由で光回線を利用するため、圧倒的にスマホのほうが表示速度が速いのである。

    つまりテレビは単なるテレビと化してしまい、たまに音楽再生機として使われる程度のものに成り下がってしまっているのだが、それが本来の姿なので元のさやに収まったというだけのことか。

  • 高級官僚

    増税の論議は深まり、反対勢力がどんなに声を嗄らそうとも待ったなしで消費税率は引き上げられるに違いない。

    財政破綻しかかっているのに予算を削減せず、増える一方なのはどうしてなのか。

    ギリシャと比較にならないほど日本の経済規模が大きく、潰すに潰せないと聞く。

    メガバンクと呼ばれる銀行、例えばパナソニック、例えばトヨタに何かがあったとしても、関連企業を含めた雇用人数、金融市場に占めるマネー、下請け、取引企業の連鎖倒産などを考慮した場合、あまりに影響が大きすぎて潰すことはできないだろう。

    過去にはダイエー、JALが国によって救済されたのと同じことだが、それと似たような理論で世界は日本を潰すことができないのだそうだ。

    どうせ潰せないだろうという憶測が容易に成り立つから、円の価値が暴落するとも考え難いゆえに円が安心資産として買われるので円高になる。

    円高が常態化してしまったので輸出産業が痛手を受け、収益が減るので税収も落ち込むという悪循環に至っているのは周知の事実だが、それだけにとどまらず日本での製造、輸出が困難となってしまったので電子機器、自動車製造工場が海外移転する結果となり、雇用まで失われて景気が悪化するという負のスパイラルから抜け出せない。

    経済がそんな状態であるのに増税などすれば不景気に拍車がかかり、ますます日本経済の沈下は加速するのではないかと思う。

    それでも日本は破綻しないという甘えがあるのか、政治家もどこまで無駄を省いて支出を減らし、財政健全化を果たそうとしているのか本気度を測りかねる。

    そんな状況で増税などと言い出すので国民の支持を得られない。

    政治主導を掲げた民主党も今となっては官僚の言いなりとなっている感が強く、消費税率引き上げに関しても財務省の要求、インチキ試算に振り回され、言いなりになっているだけなのではないだろうか。

    新聞を見ても週刊誌を見てもテレビを見ても霞が関にうごめく官僚が日本を危機に追い込み国民のヤル気を奪っているとしか思えない。

    予算を削らず保身に努め、自分たちさえ良ければ国民の犠牲をも厭わないと言わんばかりの態度は許しがたいものがある。

    政治家、マスコミ、国民を含めて誰もが官僚が悪いと分かっているのに、そしてそれを公然と議論しているのに、どうして官僚たちの身が、利益が、立場が守られているのか不思議でならない。

    いったい官僚はどこまでの力を持っているのか。

    公務員法に守られ、その法律も自分たちで作っているようなものなので簡単にはシステムを壊すことはできないだろうが、堅牢な牙城をつき崩して既得権益を死守しようとする官僚を駆逐し、税金が本当に国民のために使われるようにしてくれる政治家、政党に政治を任せたいとは思うものの、どこもここも頼りない。

    したがって、橋下徹氏が率いる維新の会に注目が集まるのだろう。

    ワンマンでも独裁者でも構わない。

    とにかく今の日本を何とかしてほしい。

    官僚機構を木っ端微塵に吹き飛ばし、日本を再構築してほしい。

    そのためであれば痛みがともなっても仕方がない。

    とにかく今は大きな地殻変動を望む。