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    最近の若い者は ~目次~

    平成生まれの社会人が現れたときにも少なからず心がざわついたが、あと4-5年もすれば 21世紀生まれの社会人が登場することになるだろうし、もうすでに芸能界で活躍するアイドルの中に少なからず 21世紀生まれがいるのであろうと想像すると、隔世の感を禁じ得なかったりしてしまう。

    もちろん自分にだって若い頃はあり、当時の大人たちからは新人類とか呼ばれたりしたもので、妙に鼻っ柱が強く、先輩を先輩とも、上司を上司とも思わず、必要以上に尖っていて周りの人を傷つけたり先輩や上司に疎ましがられていたものと思われる。

    決してそれが良いことだとは思わないが、それにしても最近の若い者は妙に良い子すぎて気持ち悪さを感じないでもない。

    古くはゴルフでプロデビューしたてだった石川遼、最近ではフィギュア・スケートの羽生結弦などがそうだが、インタビューの答えが優等生過ぎて若さを感じないほどだ。

    今年、就任一年目にして福岡ソフトバンクホークスをプロ野球日本一に導いた工藤公康監督も、新人の頃は当時の若者らしくハチャメチャな言動で諸先輩方を困らせたり呆れさせたりしていたが、最近のプロ野球の新人選手はインタビューにもそつなく答えて波風を立てることもない。

    そんな若者たちを見て世のお母様がたは
    「なんて良い子なんでしょ」
    とか
    「んまぁ~、うちの子にしたいくらいだわぁ~」
    などと、うっとりした表情で見たりしているが、根ががさつで根性のひん曲がった自分などは
    「なんじゃそりゃ」
    とか
    「判で押したような答えしかできんのか」
    などと文句の一つも言ってやりたくなってしまう。

    しかし、それは今の時代の子であり、昔とは何かが明らかに異なっているようだ。

    高校野球でインタビューを受ける選手も実にしっかりとした受け答えをしている。

    自分が同じ年の頃など大人から何を聞かれても反抗していたし、そもそもボキャブラリーが乏しくて自分の思いを正確に言葉で表現することなどできなかった。

    今は中学生であっても、小学生であってもテレビでマイクを向けられると驚くほど流暢に話し、敬語を使いこなしたりしている。

    自分が小学生の頃など何か聞かれたとしても
    「はい」
    という返事くらいしか出来なかっただろうし、どう思うか聞かれても何をどう話して良いのか分からず、ただもじもじしていたに違いない。

    それほど言葉巧みに自分の意思を伝えることができたり何かを表現したりできるのに、人とのコミュニケーションを図るのが苦手な若者が多いのが不思議だ。

    ただし、決して自分の殻にとじこもっている訳でも対人関係が面倒な訳でもないらしい。

    昔は会社での人付き合いが面倒で、歓送迎会や忘・新年会などもお断り、上司と飲みに行くなどまっぴら、社内旅行などもってのほかという若者が多かったが、今は逆に社内旅行、社内運動会などに参加したがる子が増えており、先輩や上司とも積極的に飲みに行ったりするらしい。

    自分が若いころなど人と関わるのが面倒で、近所付き合い、地域ネットワーク、コミュニティなどに一切の興味はなく、アパートやマンションの隣の部屋に誰が住んでいるのかすら知らなかった。

    それは、自分だけがそうだった訳ではなく、社会全体がそういう傾向にあり、コミュニティの崩壊とか地域のつながりの希薄化などと言われていたものである。

    ところが今では下宿、寮生活、シェアハウスなどといった共同生活を好む若者が増えているらしい。

    初めての一人暮らしをする際、親は下宿を勧めたが、他人との共同生活など考えられず、自由気ままに暮らせるアパート暮らししか頭になかった自分とは大違いだ。

    いや、自分だけではなく少なくとも20数年前、バブル期からバブル崩壊後にかけての若者は、みなが一様に他人との深い関わりを嫌う傾向にあった。

    それから今までの間に何があったのだろう。

    長期的な経済の低迷、デフレ期で子どもにかける費用の減少によって、以前のように車を買ったり身分不相応のファッションに身を包んだりできなくなり、低家賃の借家に住みながら学費の足しに働く学生が増え、それなりに社会との繋がりが多くなって価値観に変化をもたらしたのか。

    阪神・淡路大震災、新潟県中越沖地震、そしてまだ記憶に新しい東日本大震災を経験し、家族の絆、地域コミュニティの重要性を思い知り、大切さを身をもって実感した当時の若者達が親となり、当時の子どもが大人になって風潮が大きく変化したのかもしれない。

    しかし、中には常識では考えられない罪を犯す輩がいたり、人に注意されると極端に機嫌を損ねる何の価値もない極薄のプライドの持ち主がいたり、外界との交流を一切遮断して引きこもる子も確実に増えていることを考えると、二極化が進んでいるような気がする。

    それがなぜなのかも含め、最近の若い者のことは良く分からなかったりするのだが・・・。

  • 最近の若い者は 5

    最近の若い者は ~目次~

    新年もまだ明けたばかりで今日はまだ三箇日の最中であるこの時期にボヤきたくはないが、年末年始のテレビを見ていて腹に据えかねるというか、呆れて物が言えないというか、オッサンには信じられない種族が世に繁殖している事実に驚き、新年早々だというのに腰を抜かしてそのままギックリ腰になってしまうのではないかと思ってしまった。

    もちろん昔と今は時代も背景も子育ても親子関係も何もかもが違っていることは理解しているが、親が子を思う気持ち、子が親に向ける感情にそれほど大きな違いがあるとは思っていなかったのだが、どうやら昔と今では雲泥の差があるらしい。

    自分が子供の頃、思春期の頃は親が鬱陶しくて仕方がなかった。

    それは男女に大きな差はなく、男子も女子もそれぞれに親を疎ましく思っていたもので、母親と何日も口を利いていない女子も相当数を占めていたものだが、今の母娘は実に仲が良い。

    休日に母親と買い物に行くのはもちろん、食べ物の違いなのか美容技術なのか分からないが昔の親より遥かに若く見える母親と着る服を共有したり、同じ美容室に行ったりしているという。

    その程度であれば少数派ではあるものの昔の女子にもいることはいたが、父親と仲が良い女子など皆無に近く、父親は家にいないほうが良いとか、ウザいとか、臭いとか、死ねとか言っており、汚いから父親の下着と自分の下着を一緒に洗濯しないでほしいとまで言っていたものだ。

    ところが、ところがである。

    最近の女子中学生や女子高生にインタビューする番組を見ていると、父親をどう思うか聞かれて 「好きですよ」 とか 「仲良いですよ」 と答える子がとても多いのに驚かされた。

    父親と買い物に行ったり外食したりするのも嫌々ではなく嬉々として行っているようだし、AKB48などのアイドル好きの父親を持つ娘は嫉妬したりしている。

    時代は変わるものではあるが、いつの間に娘と親は、まして娘と父親はこれほど理解し合い、仲が良くなったのか不思議でならない。

    年頃の娘を持つ親といえば、親を、特に父親を毛嫌いしていた世代であり、自分たちがそうだったのに、なぜ子供を手なずけることができるのか。

    いや、自分たちがそうだったからこそ親の欠点、弱点を知っており、それを抑えて娘世代にすり寄って嫌われないよう細心の注意を払っているのだろう。

    つまり、親が厳格なものでなくなり、子どもたちに嫌われないよう子どもたちに合わせているというのが実情であって、子が嫌がるようなことを言わず、鬱陶しいと思われるようなしつけも注意もしなくなってしまったに違いない。

    子どもと仲良く過ごすのは良いが、それに重点を置くあまり、まともなしつけも教育もできていないのであれば日本の未来はどうなってしまうのか心配だ。

    そして何より正月早々にもかかわらず怒りを通り越して気持ち悪さや不気味さを感じているのは、男子と母親の関係についてである。

    それこそ今から25年くらい前、バブルの絶頂期から崩壊にかけての 1980年代後半から 90年の前半はチャラチャラした男が多かったし、親から買い与えられた車を乗り回してはいたものの、今ほど母親と仲良くなどしていなかった。

    むしろ母親と仲が良かったり母親のことを気にしたり言いつけを守ったりしているような男はマザコンの烙印を押され、女性から相手にされないどころか同性の友だちからも馬鹿にされたりしていたものである。

    ところが今は母親と仲が良い男性はきっと女性にも優しいに違いないと思われているのだそうで、むしろそういう男性を好む女性が増えているというのだから驚きだ。

    テレビ収録に来ていた男性が誇らしげに母親との仲を自慢しているのを見て、オッサンの背中には 283匹分ほどの虫ずが走り、頭のなかで 「馬鹿じゃないのか」 などと毒づいたりしていたのだが、それを容認する女性の発言を聞いて腰が砕けてしまったのは言うまでもない。

    以前から大学受験に親と一緒に来る子どもや、大学の案内や説明会に父母同伴で来る子どもを見て 「情けない」 と文句を言い、最近の大学には参観日があると聞いてアゴが床まで落ちてしまうほど開いた口がふさがらなかったりしていたが、数日前の驚きはそれどころではなかった。

    そのスタジオに来ていた 19歳の男性は、「今でも母親と風呂に入る」 などとぬかしてオッサンの心を凍りつかせてくれたが、それを隣で聞いていた同世代の女性がさして驚いていなかった事実を目にするに至っては、つくづく隔世の感を禁じ得なかったのである。

    確かに親不孝ばかりしている訳にもいかないので母親を大切にするのは良いことかもしれないが、親を大切にするのと親離れできていないのは別次元の話であって、母親と混浴する成人直前の男がまともだとは思えないのはオッサンの頭が硬いのが原因ではないだろう。

    そして先の話と同様に、こういう子どもを育てたのは男を選ぶ際にマザコンは嫌だ、気持ち悪いと言っていた世代だというのが何とも不思議だ。

    子どもに嫌われないよう、ろくに教育しない親に育てられ、選挙権を持つようになっても母親と風呂に入っているような子どもたちに日本の将来を託さなければいけないと思うとあまりに悲しく、涙でにじんだ目では、ますます日本の将来が見えなくなってしまう。

    戦うことを忘れ、自分の身も守れない種族となってしまった日本人が、経済力も国際競争力も失い、二流国、三流国へと転落し、世界から見て貧しい国になる前に自分の寿命が尽きるであろうことがせめてもの救いか。

  • 最近の若い者は 4

    最近の若い者は ~目次~

    特に最近の芸能人、いや、お笑い芸人に多いのだが、自分の家族のことを 『お父さん』『お母さん』『お姉ちゃん』などと呼んでいる。

    以前の雑感に書いたような事情で、自分も母親のことを直に呼ぶときは未だに
    「お母さん」
    と言ってしまうが、他人に話すときは 『母』 と言うし、『お買い物日記』 担当者や知人と話すときは 『お袋』 などと呼ぶ。

    いや、それが常識であって社会人になると、いやいや、社会人になる前に学校で教えてもらったと思うのだが、今はそのような教育をしないのだろうか。

    これが年端も行かない子役とかジャリタレだったらまだしも、20や30歳にもなって言っているようでは、まともな言葉遣いも出来ない良識に欠ける人物と評価されてしまうだろう。

    学校で教わらなくても社会に出れば、それがたとえ芸能事務所であろうと何だろうと一般常識くらいは教えるべきだし、せめて先輩は注意すべきではないだろうか。

    おとうさんは父、おかあさんは母、おねえちゃんが姉、おにいちゃんが兄、そして、祖父、祖母、おじ、おばなどなど、身内を呼ぶ場合と、社外の人に対しては、例え上司、社長であっても社内の人間は呼び捨てで良いという最低限の教育くらいは最初に行っていただきたい。

    このまま社会の代謝、世代交代が続けば、おかあさんと呼ぶのが常識となってしまいそうだ。

    それどころか社内の人間を呼び捨てにしたりすると、非常識な人間だと思われる日が来てしまうかも知れない。

    かなり以前にも書いたが、芸能人、女優、話すことを職業とする人でさえ、語尾上げ、語尾伸ばし、食べられるを食べれるという『ら』抜き、マクドナルドの店員みたいに
    「ご意見の方、お待ちしております」
    などという『ほうほう』言葉、最近になって流行り始めた
    「◯◯じゃないですかぁ」
    という表現を使い、それがメディアという力のある媒体に乗って常識となりつつあるのは実に嘆かわしいことである。

    まだ若い子が言っているのなら我慢もするが、40にも50にもなったオバチャン、大勢の部下を持つ管理職のオッサンまでそんな話し方なのには腹立たしさすら覚える。

    そんなオバチャンの話しなど聞きたくもないし、そんな話し方をする管理職がいる会社とは取り引きもしたくない。

    イライラして精神衛生上もよろしくないので、そんな話し方や言葉づかいをする輩は絶滅して頂きたいと心の底から願っている。

  • 最近の若い者は 3

    最近の若い者は ~目次~

    オジサンの若かりし頃、子供の頃は
    「男児たるもの人前で涙など見せるものではない」
    という戦後色濃厚な香りを引きずりつつ親や教師から言い聞かされたものである。

    泣くことが許されるのは親きょうだいが亡くなったときくらいなもので、それ以外の場面で涙など見せようものなら同級生からすら笑い者にされてしまうような時代だった。

    しかし、最近の男の子は事あるごとにすぐ泣くらしい。

    感動的な映画など観て涙する程度であれば、なかなか感受性が豊かでよろしいと思わなくもないが、泣く理由はオジサンからすると到底許容しがたい内容だ。

    男と女の間には別れがつきものであるが、昔のドラマや映画、実社会においても別れ際に泣くのは決まって女性であり、それが絵になるからこそ多くの名シーンが誕生したのであって、テレビでも映画でも小説でも時には悲しく、時には美しく、時には狂おしく描かれてきた。

    ところが最近では別れ話を持ち出されて泣き出す男が多いのだそうだ。

    相手が去っていく後ろ姿を横目にヨヨと泣く、時には追いすがり、すがりつき、足げにされて倒れこみ、涙でにじんで見える彼女の姿を目で追い続ける男・・・。

    貫一お宮の立場が入れ替わったようなシーンを見せられては感動も何もあったものではないと思うのだが、今後はそういう物語が主流となって芝居や映画などで人々を感動の渦に巻き込んだりするのだろうか。

    別れはそれなりに悲しいことであるので百歩譲って男が泣くことを許したとしよう。

    しかし、聞いた話では彼女と喧嘩して泣く男もいるらしい。

    もちろん、自分が悪いのであれば謝罪し、許しを乞うことは男女に関係なく必要なことだとは思うが、何も泣くことはあるまい。

    たかが男と女の、他人から見れば小さな諍いで始まった喧嘩において、涙ながらに謝罪するほど深刻なことがどこにあろうか。

    これは最近読んだ本に書いてあったことの受け売りだが、最近の男の子は会社の上司に叱られた程度でも泣くらしい。

    理不尽なことを言われて陰で悔し涙を流すというのなら分からないでもないが、叱られている最中に上司の目の前、周りに社員がいる中でシクシク泣くのだそうだ。

    男女雇用機会均等法が徹底され、男女格差がなくなりつつある今、こんなことを言うと叱られそうだが、昔は上司に叱られて泣くのは女性であり、涙を見せられた上司は少したじろいで
    「涙は女の武器だ」
    とか言ったものであるし、周りの男性社員は
    「いいよなぁ~女は。泣けば許してもらえるんだから」
    などと嫌味を言ったりしていたものであるが、そんなことも今は昔。

    叱っている最中に泣き出す男性社員を相手にした上司は、さぞかし度肝を抜かれることだろうが、それが現実であり、それが今の時代なのだろう。

    最近になって少し涙腺がユルユルになりはじめ、映画を観て感動したり、探査機 『はやぶさ』くんの帰還に胸が熱くなって泣きそうになったりもするが、やはり涙を流すのはためらわれる。

    人目もはばからず泣く男などと一緒に仕事もしたくないし、部下に持ちたくもないし、そもそもそんなバカは相手にもしたくない。

    そんな時代、会社勤めをせずに一人で仕事をしていて本当に良かったと、オジサンは少し安堵したりしているところである。

  • 最近の若い者は 2

    最近の若い者は ~目次~

    16日の雑感の続きになるが、オッサンの目から見ると近頃の若い者はいったい何を考えているのか理解し難い。

    少し前に雑誌で読んだのは、最近の若者は面倒が苦手であるという内容だ。

    菓子メーカーのロッテの根幹を支えてきたガムは 1950年に発売して以来、右肩上がりで市場が拡大してきたのに 2004年をピークに縮小に転じたそうだ。

    その主な原因は若い人がガムを噛まなくなったことにあるという。

    そして、ガムを遠ざけている驚くべき要因とは・・・。

    「個別にされている包装を剥くのが面倒」
    「ガムを噛むのが面倒で疲れる」

    ・・・・・。

    「そんなことが面倒だったら一生ガムなんか噛むなあぁぁぁー!」
    と、若者の耳をちぎれんばかりに引っ張った上で腹の底から大声を出して怒鳴り散らしてやりたい気分だが、菓子メーカーにとっては由々しき事態である。

    そこでロッテが開発したのがフィッツというガムのシリーズで、包装を剥くのが面倒という声に対応してパッケージと包装の一部を接着し、ガムの端をつまんで引き抜くとワンタッチで包装が剥がれるようになっている。

    また、噛むのが面倒で疲れるという声に対応し、今までと比較すると考えられないほどガムを柔らかく仕上げてあるとのことだ。

    そして、ガムを噛むといつかは吐き出さなくてはならず、捨て場所を探すのも紙に包んで捨てるのも面倒という声に対応し、味を長持ちさせて噛み始めてから 40分間は持続するようにしたという。

    消費してもらう立場になれば、ユーザーのニーズを探り、的確な商品開発をするということに徹しなければならないのだろうが、そこまでしなければいけないのかと頭が下がる思いだ。

    世の中はどんどん便利に、どんどん楽になっていく。

    良く言われることだが、昔と比べて炊事、洗濯、掃除がどれほど楽になり、どれほど時間短縮ができたことか。

    炊飯ジャーの登場によって放っておいてもご飯は炊ける。

    米を研がずとも無洗米がある。

    炊き上がったご飯をおひつに移す必要もない。

    電子レンジやオーブンがあれば短時間に、そしてセットさえすれば放っておいてもできあがる。

    全自動洗濯機があれば放っておいても衣類は綺麗になるし、自動掃除機ルンバがあれば勝手に部屋の掃除もしてくれるので何もする必要はない。

    それらの機器の登場によって手間や時間が軽減され、重労働から解放されたのは事実であり、世の中が便利になったのは喜ばしいことだ。

    しかし、噛むのが面倒とか疲れるなどというのは次元が違う。

    骨を取るのが面倒だからという理由で魚の消費量が落ち込む。

    漁業関係者は魚離れを食い止めるため、骨を取り除いた魚を売る。

    食べるのが面倒という訳の分からない要求に対応し、中国人やベトナム人がピンセットを握り締め、安価な労働賃金で必死になって骨を取り除く。

    果たしてそれは正しい世の中なのだろうか。

    そんなに何もかもが面倒なのなら歩くことも食べることも呼吸することも止めてしまえ。

    ・・・などと、オッサンは思ったりするのである。

  • 最近の若い者は

    最近の若い者は ~目次~

    オッサン化の象徴であり、禁句とも言える言葉であるが、どうしても口を衝いて出てしまう。

    どう考えても今の20歳の若者は自分が20歳の頃と比較して幼い気がしてならない。

    それは見かけもあり、思想でもある。

    1960年に 67.7歳だった平均寿命も 2008年現在で 82.6歳まで伸び、細胞の活動も伸び伸びになってしまったのだろうか。

    つまり、平均寿命が 60歳だった頃の 20歳は人生の 1/3地点であるからして、平均寿命 80歳の現在では約 27歳が 1/3地点であり、精神的にも肉体的にも 50年前の 20歳と同じ成熟度に達するのは 30歳くらいになってからではないだろうかと妙な理論を打ち立ててみたくなるほど若者が幼く見える。

    そのくせ、妙にこまっしゃくれており、小学生でも中学生でもテレビのインタビューに堂々と応えたりしている姿は一種異様な感じすら覚えてしまう。

    カメラの前で受け答えする内容は、自分が小学生や中学生だった頃と比較して信じられないほどの完成度で、誰かがシナリオでも書いているのではないかと疑いたくなることもしばしばだ。

    そのまま育てば、さぞかし立派な成人、大人、社会人になるだろうと頼もしく思えるのだが、どこでどう間違えるのか、どの時点で成長が鈍化するのか、高校生くらいからちょっとおかしなことになってくる。

    自分が同年齢の頃は、悪く言えば反抗的で、良く言えば子供なりに自立の道を模索しており、親離れの準備段階に入っていたように思う。

    ところが今の子は親の言うことを良く聞き、敷かれたレールの上を何の疑いもなくただ進むか、反抗するにしても部屋に引きこもったりニートになったりと内に入ってしまい、家庭内暴力で精神的にも肉体的にも親を傷つけるくせに家を出たり放って置かれることを拒絶する。

    そんなに反抗したければ親の作る食事に手を出さず、自分で作るか外食するか、バイトでもして自分で生活すれば良さそうなものだが、部屋の前にそっと置かれる食事は毎回たいらげるという矛盾。

    精神的レベルは幼稚園児かそれ以下でしかない。

    男の子、女の子を問わず、大学生になっても見かけは妙に幼い。

    パッと見は高校生か、中には中学生にしか見えない子もいる。

    一昔前、バブル華やかりし頃の女子大生といえば、何とも淫靡なニュアンスを含んでおり、オッサンが金にモノを言わせて高級外車に乗せて連れ回したりしていたものだが、自分がオッサンになって女子大生を見てみると、決して性の対象になどならない単なる子供にしか見えない。

    見かけだけではなく、精神的にも幼いままで中学生や高校生程度の感性しか持ち合わせていない子も多いように思う。

    単純な例を挙げると、現、松任谷由実、旧姓は荒井由実が自分の存在を世に知らしめた 【あの日にかえりたい】 という楽曲をリリースしたのは 1975年で、同年にはバンバンというフォーク・グループに 【『いちご白書』をもう一度】 という楽曲を提供している。

    その詞の内容、世界観は卓越した才能によって構築されているとはいえ、当時 21歳だった彼女の内の内たる部分から湧き出しているものだろう。

    ひるがえって当時の荒井由実と同じ21歳であり、携帯世代の申し子と呼ばれる西野カナの詩の内容、世界観は実に浅く狭く、どの楽曲の詞をみても 「会いたい」「会えない」「会いに行く」「やっぱ会えない」 などと、妙に会いたがる女の子しか登場しない。

    実のところ、彼女が成人しているとは外見だけでは信じられなかったし、今でも中学生くらいにしか見えないし、精神年齢も昔の中学二年生の夏休みくらいなレベルだと思われる。

    当時の荒井由実と現代の西野カナには外見的にも精神的にも 10歳以上の年齢差があるのではないだろうか。

    最近も AKB48のメンバーに 20歳以上の女の子が何人も含まれることを知って腰を抜かさんばかりに驚いたところだ。

    どこからどう見ても子どもが学芸会の出し物として演じているようにしか見えなかった。

    もちろん、自分がオッサンの領域に入って久しく、その年齢差から若者が幼く見えるのであろうことは否定できないが、現代っ子の成長速度が著しく鈍化し、いつまでも大人になれていないのも少なからず要因となっていると思えてならないのだが、果たしてどうだろうか。