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  • 記憶 Memory-11

    過去の記憶

    過去の記憶をたどると様々なことを覚えており、むしろ数日前の食事内容とか数年前の旅の思い出よりも鮮明だったりするのはオッサン化が進んだ証しなのかも知れない。

    小さい頃の記憶は確かにあるが、小中高と通学に関する明確な記憶が無いのはなぜなのか。

    通学の道のり、景色も記憶に刻まれてはいるのだが、とくに登校時の記憶がほとんどと言っていいくらい残っていない。

    三歳の時に住み始めた家は農業を営まれていた方から譲って頂いた土地に建てたので、周りは一面の畑と田んぼで他に家などなく、当然のことながら隣近所などというものもないので誰かと一緒に登校することもなく、行きはいつも一人だったはずだ。

    毎朝どうやって学校までたどりついたのか、小学校から高校まで覚えていないというか、何も心に残っていないのである。

    下校になれば、もちろん道草をして叱られた記憶もあれば、友達と笑い転げながら歩いた記憶、無意味に石を蹴り続け、先にやめるのが悔しくてムキになった記憶もある。

    小学校の時はずっと仲良くしていたキミヒコと一緒に帰ることが多かったし、男子も女子もなく数人が入り乱れてワイワイ言いながら帰ることも多かった。

    歩道の縁石の上をずっと歩いたり、冬は除雪で積まれた雪の上を歩いて帰ったりしたものだ。

    中学生になれば真っ直ぐ家になど帰らず街なかをうろついたり喫茶店に寄ったりもしたし、友達の家に寄ったり、不良仲間と遊んだりしてから帰宅した。

    途中までマサルと帰ることも多く、今となっては何を話していたのかも覚えていないが何だかんだと喋ったり大笑いしながら下校した記憶が残っている。

    しかしながら登校時の記憶はどの学年を通じても明確ではない。

    そして、その中でも特に不思議に思うのは雨の日の通学だ。

    毎日の通学では雨の日もあるのが当然で、小学校の低学年であればカッパを着せられて通学したかもしれないが、高学年以上になれば傘をさしていはずなのに、その記憶が皆無なのである。

    いったい何色の傘を持っていたのか、帰りにその傘を持って帰宅したのか。

    そもそも学校のどこに傘を置く場所があったのか。

    玄関に傘立てがあった記憶はないし、下駄箱はあってもロッカーなどはなく、教室にも傘を置いておくような設備があった覚えはない。

    そして、自宅でも傘はどこに置かれていたのだろう。

    もしかすると折りたたみ式の傘を使い、家でも学校でもカバンの中に入れっぱなしにしていたのだろうか。

    そうでなければ突然の雨でびしょ濡れになって帰ることも多かったはずだが、全身が雨に濡れて帰宅した記憶など 1、2度しかない。

    つまり、天候が急変しても対応できていたということであり、それが可能なのは常に傘を携帯していたからなのではないか。

    推測から導き出される結論は折りたたみ式の傘が常にカバンに入っていたということになるが、例えそうだったとしても、いったいそれは何色でどんな柄の傘だったのだろう。

    それに関して一切の記憶がないのが不思議でならない。

  • 記憶 Memory-10

    過去の記憶

    少子化が進んだことと、最近の子供は塾通いで忙しいことと、家の中で遊ぶ子供が増えたことなどが重なりあって近所で遊ぶ子供の姿と声が消えてしまった。

    自分が子供の頃は習字やそろばん、柔道や剣道といった、いわゆるお稽古事というのはあったが学習塾などというものは存在すらせず、放課後のグラウンドや近所の公園、広場や草むらには多くの友達がいて遊ぶのに苦労しなかったものである。

    そして、そんな子供たちを見ている大人も必ずおり、誰かが怪我をすればどこからともなく現れて薬を塗ってくれたりしたものだ。

    自分の子も他人の子もなく同じように可愛がり、同じように叱りつけたリしていた。

    そんな時代に育った自分は近所に大勢の友達がおり、その数だけ母親や父親がいるのも同然だったので、いろいろな場所で可愛がられたり叱られたりする。

    悪さをすれば他人の親にだろうと尻を叩かれたし、頭にげんこつをもらったりしたが、自分が悪いと分かっていたので親にも言わなかったし、たとえ言ったところで
    「おまえが悪いからだっ!」
    と言われ、他人の親と自分の親から二重に叱られる羽目になり、見事に墓穴を掘る結果となってしまっていた。

    同級生はもちろん、上級生も下級生もなく一緒に遊び、友達の家にあがりこんでおやつを食べさせてもらったりすることなど日常茶飯事だった。

    そんな中、国道沿いの一軒家に住む老夫婦が自分とどういう関係だったのか今も分からない。

    玄関に金網のかごが置いてあり、その中でリスを飼っていたので、それを見たくて遊びに行っていたのかもしれないが、その家には同じ年代の子供はおらず、お爺さんとお婆さんが二人で暮らしていたように思う。

    田舎の家であり、のどかだった当時は玄関に鍵などかかっておらず、好き勝手に出入りしても叱られたり文句を言われたりしなかった。

    その家にはしょっちゅう遊びに行って勝手に部屋に上がり込んだりしていたが、老夫婦はニコニコしながら
    「おや、来たのかい」
    と言ってジュースを飲ませてくれたりおやつを食べさせたりしてくれた。

    同じ年代の子供がいないので家の中には遊ぶものもないし、老夫婦と会話が弾むはずもないのだが、勝手に家の中をウロウロしたり巣の中からなかなか出てこないリスをジーっと見たりして、飽きると帰るということを繰り返していたはずだ。

    その家の数軒先に新婚さんの住む家があり、新婚さんゆえに同じ年代の子供などいるはずもないのだが、その家にもかなりの頻度で遊びに行ってはお菓子を食べさせてもらったりしていた。

    そして自宅の裏にも新婚さんが暮らしており、そこにもよく遊びに行っては何か食べさせてもらっていた。

    子供の頃、親は
    「この子は食が細く、あまり食べないので体が弱い」
    と心配していたものだ。

    しかし、実のところは、いろいろな家でたらふくおやつを食べていたので、晩ご飯など入るすき間が胃袋になかったというのが実情だった。

    そして、その事実を親は今でも知らなかったりするのである。

  • 記憶 Memory-09

    過去の記憶

    生まれたときは社宅暮らしだった。

    その社宅というのは名ばかりの長屋に住んでいたというのに夜中になれば少しの物音で目を覚まして泣き叫んだり、体が弱く病気がちで具合が悪いものだからビービー泣くという、まことに手のかかる子どもを持った両親は、壁が薄く隣近所に迷惑をかけているのではないかと気を揉む毎日だったという。

    そこで、共稼ぎと言えども安月給だった若夫婦は一念発起し、壁越しの隣人に気を使わなくて良い一軒家を建てることにしたのであった。

    それは自分が二歳を過ぎた日のことで、それがどれほど迷惑をかけた結果であるか、それがどれほどの決断であるかも知らず、アホ丸出しで 「わーい」 と単純に喜んで走り回っていたらしい。

    当時は今のような工法が開発されておらず、昔ながらの大工さんが昔ながらの方法で基礎から地道に固め、ゆっくりとしたペースで建設されていった。

    今でこそ一カ月や一年などあっという間に過ぎ去ってしまうが、ニ歳児の感覚では一日すら長く、一時間もあれば様々な遊びができたくらいなので、着工から完成までひどく長い時間が経過したように記憶している。

    時間経過がゆっくりと感じられる子どもにとって式典などというのは退屈の極みであり、いつまでも延々と続く空間で大人しくしていろということ自体が無理な相談というものだ。

    棟上げまで工事が終了した際にとり行われる上棟式も子どもにとっては過酷な我慢大会のようなものであり、つまらない大人の話しを聞いてなどいられない。

    人の多さに圧倒されて静かにしているのも 10分くらいなもので、それを過ぎると周りをキョロキョロ見渡したり、大工道具に興味を持ってチョロチョロと動きまわったりし始める。

    神妙な顔をした母親が目だけ鬼のように釣り上げてこちらを見ていたが、大勢の前で叱られることもあるまいという子どもなりの打算も働き、目を合わさないようにしながらコソコソと一人遊びをしていた。

    それにしても長く、一人で遊ぶことにも飽き、そろそろ我慢も限界に達しようとしていた時、その場にいた全員が起立して何かが始まったようだ。

    さすがに自分のいるべきところに戻ったほうが良いのではないかと思い、両親の姿を探したが背の高い大人が全員立ち上がって狭い空間に密集していると顔を確認することができない。

    人をかき分けて進み、必死になって探していると見覚えのあるスカートと大きな尻が目に入った。

    無事に母親の元へとたどりつけた安心感と、勝手に遊んでいたくせに放っておかれたというねじ曲がった怒りが心の中で交錯し、ムカムカと腹がたってきた。

    そして、ここで思いっきりパーン!と尻を平手打ちすれば、さぞかし母親は驚くだろうし、それを見たまわりの大人たちの笑いが取れるのではないかという考えが頭をもたげ、その衝動を抑えることができなくなってくる。

    心の葛藤は何秒間くらい続いただろう、ついに悪魔のささやきが心を支配し、ジリジリと目の前の尻に近づいて狙いを定め、ありったけの力で尻をひっぱたいた。

    空間に響き渡るパーーン!という音と聞いたことのない女の人の悲鳴・・・。

    なぜそう思ったのか今となっては分からないが、その尻のでかさとスカートの色だけでそれが母親であると確信し、疑問を挟む余地など全くと言っていいほど生じなかったのだが、その尻の持ち主は明らかに別人だったのである。

    その後、上棟式は大混乱におちいり、母親からこっぴどく叱られることになってしまったのは言うまでもない。

  • 記憶 Memory-08

    過去の記憶

    3歳になるまで、両親とも勤めていた電電公社(現NTT)の官舎暮らしをしていた。

    木造二階建てで1棟3-4世帯が住める社宅が10棟以上は並んでいたと思われるので、その一角には100人前後の住人がいたのだろう。

    当時は今のように少子化が進んではいなかったし、幼児教育などという概念もなく塾通いしている子供など皆無であり、過保護な親も少なく子供は外で遊ぶのが当然だったので、中央に位置する公園に行けば必ず誰かと遊ぶことができたものだ。

    そして、そこには幼児から小学生、中学生までおり、年上の子供は小さな子供の面倒をよくみていたので、親たちも安心して放っておくことができたのだろう。

    自分は当時中学生だった女の子にいつも面倒をみてもらっていたらしく、彼女の顔は今でも薄っすらと記憶に残っている。

    正確な名前も苗字も知らないが、『りっちゃん』 と呼んでいたはずなので、リエコさんとか、リツコさんという名だったのだろう。

    そして、年下の女の子の記憶もあり、今でも鮮明に思い出すのは夏の陽射しの暑い日にベランダ座って二人でスイカを食べているところだ。

    今から思えば親が自分の子供より他人の子を褒めるのは社交辞令的にも当然のことであるが、幼児にそんな大人の事情が理解できるはずもなく、とても悔しい思いをした記憶がよみがえる。

    自分はスイカを頬張って口の周りから胸元まで果汁でベトベトにしていたのだが、その子はスイカに口をつけてチュウチュウと果汁を吸いながら食べるので顔も体も汚れることがない。

    それを見た母親が
    「本当にジュンちゃんはスイカを食べるのが上手だね」
    と褒め称え、
    「それにひきかえ、お前はどうしてベトベトにして食べるのっ」
    と文句を言う。

    自分は褒められて伸びるタイプで叱られたり小言を言われると反発するかふてくされたりするが、一応は彼女の真似をして果汁をチュウチュウ吸ってみたりしてみても、どうもまどろっこしく、シャウシャウと一気に食べたいという欲求が勝り、結局は顔も体も果汁だらけにしたりしていた。

    ある日、その女の子の父親が事故で亡くなった。

    子供の耳にまで届いてきた噂では、酔って線路で寝込んでしまい、電車にはねられたのが死因らしいということで、遺体の損傷が激しくまだ頭部が見つかっていないということだった。

    当然、それは尾ひれを付けて子供同士が伝えあった話しなのだろうが、友達何人かと集まって悲しそうにしていた女の子を連れ、彼女のお父さんの頭を探してあげようということになり、ゾロゾロと線路の上を歩いているのが大人に見つかってしまい、こっぴどく叱られたのも深く記憶として刻まれている思い出だ。

    その後、彼女は引っ越して行き、今どこで暮らしているのか分からない。

    そして、我が家もその社宅から引っ越すことになり、いつも遊んでいた友達とも疎遠になったのだが、同じ学区内だったので小学校で再会したものと思われる。

    しかし、その記憶がまったくないので、3歳で越してから小学校に入学するまでの3年間ですっかり忘れてしまったのであろう。

    お互い、実に薄情な奴らだと、今になって思ったりしているところである。

  • 記憶 Memory-07

    過去の記憶

    両親共稼ぎだったので、生まれて間もなくの頃から他人に預けられて育った。

    当時は今のように乳幼児の保育施設など充実しておらず、核家族は自身の親に我が子の面倒をみてもらう訳にもいかなかったが、まだ住民同士のコミニュティは機能していたので血のつながりのない子供を預かるなどというのは珍しいことではなかったのである。

    最初に預かってもらったのはマエダさんというおばあちゃんの所で、0歳から2歳くらいまでの頃だったと聞いている。

    さすがにハッキリとした記憶はないが、その面影や部屋の造りなどは何となく、そしてボンヤリとした映像として残っている。

    昔の人は子だくさんで、言わば子育てのプロのようなものだった。

    我が母が相手の機嫌を損ねぬように恐る恐ると
    「そろそろミルクではなく離乳食にして頂きたいのですが」
    と切り出したところ、
    「もう一カ月も前から離乳食にしてるんだよ」
    という回答であったという。

    知らぬは我が両親だけでマエダさんはさっさと次の段階に進んでおり、間に立たされた自分は日がある間は離乳食、夜になればミルクを飲まされるという実に妙な食生活を一カ月間も強いられる羽目になったのである。

    今の時代であれば、
    「親の知らぬことを勝手にされては困る」
    とか、
    「誰に断って離乳食にしたんだ」
    とか一悶着ありそうなものだが、昔は身内であれ他人であれ、年長者のすることは往々にして正しく、まだ若かった我が両親も
    「へへぇ~、おみそれ致しました」
    と頭をさげるしかなかったようだ。

    マエダさんが体調を崩したのか、他に理由があったのか覚えていないが、3歳になる前に預け先がオキザキさんという老夫婦の家に変わった。

    二人は実に穏やかな夫婦で、実の孫のように、いや、それ以上に可愛がってくれた。

    おじいさんは今で言う潔癖症に近い人だったようで、人が口をつけたものは、それが自分の子供であっても実の孫であっても口に入れようとしなかったらしいのだが、他人の子供である自分が口をつけたものは気にせず食べていたという。

    おばあさんは絵が上手で、馬とか犬、うさぎなどとリクエストするとササッと描いてくれたものだ。

    それが影響してか、子供の頃からオッサンになった今でも絵を書くのが好きで、一時期は絵で生計を立てようと本気で考えたこともあったほどである。

    その優しい老夫婦のことは、本当のおじいちゃんとおばあちゃんだと信じて疑わず、自分にだけは父方、母方の他にもう一組、計六人の祖父がいるものだと思っていた。

    老夫婦の家の隣には息子夫婦と本当の孫が暮らす家があり、その孫は自分より二歳上の女の子、一歳上の女の子、一歳下の男の子の三人だったのだが、その三兄弟と
    「私たちのおじいちゃん、おばあちゃんだっ」
    「いーや、おれのじいちゃんとばあちゃんだっ」
    と真剣に大喧嘩したこともある。

    おじいさんは早くに亡くなってしまったが、おばあさんは実に長生きしてくれて、亡くなったのは大阪で暮らしていた頃だ。

    訃報を聞いたとき、実の祖母が亡くなったような悲しみと寂しさにつつまれたが、仕事の関係で残念ながら葬儀に参列することは叶わなかった。

    それでも、その数年前、『お買い物日記』 担当者と一緒に会いに行けていたのが心の救いだ。

    その時に会ったおばあさんは、幼児の時から数十年も経過しているのに少しも変わらず、あの時のままのおばあさんだったのが今でも不思議でならない。

  • 記憶 Memory-06

    過去の記憶

    小さいころの記憶として、何度かの祭りの記憶が残っている。

    生まれ育った町は当時活気に溢れていた。

    日本海側とオホーツク海側、双方からほぼ中央に位置し、周りを山に囲まれていたので林業も盛んで、近くには小さいながらも炭鉱があり、酪農も盛んで乳製品を製造する雪印の工場などもあったため、水産物、材木、石炭、乳製品を輸送するための鉄道網が発達し、近郊の町から町へと集配する要となっていた。

    そのため人口は増加の一途をたどり、子どもの数も少子高齢化の現在では信じられないほど多く、一学年 7クラスで 1クラスは 50人以上という状態だ。

    町全体にエネルギーが満ちているので祭りも賑やかで、夏祭りのほかに、さっぽろ雪まつりを模して雪像を何基も作成した冬祭りも開催されていた。

    その規模はなかなかなもので、一日では回りきれないほど出店や屋台が並び、路上は人で溢れ、迷子のアナウンスが引っ切りなしに流れるほど人で賑わったものである。

    街の活気も祭りの規模も大きかった幼き日、神輿の後に獅子舞が連なって進むのを沿道で見ていると、同じような年頃の子供達が獅子舞に頭をカプッとかじられ、鬼のような形相で泣きわめいていた。

    父親にか母親にか忘れてしまったが、「獅子舞にかじってもらうと頭が良くなるんだよ」 と教えられたので獅子舞が近づくのをドキドキしながら待っていた。

    確かにちょっと怖かったが、頭を食べられてしまう訳でもなく、カプッとされた子どもの頭から血が流れ出ている訳でもないので一大事には至らないと子どもながらに判断していたように思う。

    獅子舞が通り過ぎた後は、多くの子どもが泣き叫ぶ地獄絵図のようになっていたが、自分は早くカプッとしてもらいたくてニコニコしながら待っていたのではなかろうか。

    いよいよ目の前に獅子の顔が迫ってきたときも、怖がるどころか真正面から凝視していたため、パカッと開いた口の中にオッサンの顔があるのがハッキリ見えた。

    それまでニコニコして待っていたものの、獅子の中にオッサンの頭部があるのを見たとたん、どこかの誰かが頭を食いちぎられ、獅子が丸飲みしたものが見えたのだと思って気絶しそうになったのを覚えている。

    獅子が去ったあとに 「これで賢くなるね」 などと親に話しかけられたが気もそぞろ、目には獅子の腹の中にあったオッサンの生首が焼き付いている。

    それからしばらくは放心状態のままヨタヨタと親の後を歩き、さきほど見たおぞましい光景を親に伝えようとしたところで恐怖心がよみがえり、その時になってやっと涙がでてきた。

    親としても獅子は架空の生き物で中に人が入って動いているとは説明しにくかったのか、オッサンの顔があったことを涙ながらに必死に訴えかけても 「気のせいだ」 の一点張りで、なにも認めようとしない。

    それからしばらくの間、獅子の腹の中で不気味にニヤリと笑うオッサンの顔が頭から離れず、トラウマとなってしまったのは言うまでもない。

    もう一つの祭りの思い出として、互い違いになった傾斜をカプセル入りの薬を大きくしたような物体がカタカタと下っていく、どうということもない玩具に目が釘付けになり、ずっと立ち止まって見ていた記憶だ。

    幼少の頃からあれがほしい、これがほしいと駄々をこねることがなかったと聞いているが、その時も父親から 「ほしいのか?」 と聞かれるまで見入っていたという。

    「どうせすぐに飽きるんだから」 と言われて諦め、大人しく先に進むのだが出店では同じようなものがアチラコチラで売られているので、その玩具を目にするたびに足を止めてジーッと見つめる。

    そんなにほしいのならと、買ってもらったその玩具は完成品が売られているものではなく、その物体が転がり落ちる傾斜した台を組み立てなければならなかった。

    帰宅してすぐ両親は食事の支度やら何やらを始めてしまったので組み立ては後回しになったらしいのだが、いざ食事の準備が整ってふと見ると、幼い自分がカタカタと物体が転がるのを見てニコニコしているので腰を抜かさんばかりに驚いたという話しだ。

    母親は不器用なので組み立ててやるはずがなく、父親も一切手を触れていないと言う。

    残る可能性はまだ幼稚園にも行っていない子どもが一人で組み立てて勝手に遊んでいるという信じがたい状況だが、両親ともに手を貸していないので、それが事実なのであろう。

    説明書など読めるはずもないので、祭り会場で凝視し、記憶した完成形を基に手探り状態で組み立てたに違いない。

    その記憶はハッキリ残っているし、母親は今でも何かの折にその話を持ち出すので母子ともに強いインパクトを持って覚えているのだろうと思う。

  • 記憶 Memory-05

    過去の記憶

    あれは何歳のことだろう。

    まだ幼稚園に入る前、確か三年保育だったはずなので、その前ということは 3歳か 4歳のはじめごろのことだろうか。

    たった数日間のことだと思うが、入院をした記憶がある。

    幼少の頃は小児喘息を患っており、それが悪化したか発作を起こしたために入院する事態になったものと思われる。

    自宅にも吸入器があったが、それでは治まらないほどだったのだろう。

    もちろん人生初の入院、見知らぬところで寝起きするのも初めてのことだったはずだが、両親共稼ぎで一人にされることには慣れていたので、入院を嫌がって泣くこともなかったはずだ。

    むしろ周りに同じような歳の子どもがいるので嬉しかったように記憶している。

    やはり子供用のベッドに寝かされていたのだろうか、記憶している映像には目の前に必ず檻のような柵がある。

    その映像だと6人部屋の病室で、自分のベッドは入り口から見て右列の中央だ。

    左隣り、入口に近いベッドに寝ている子は重い病気なのか、何人もの大人が周りを取り囲んで深刻な顔をしている。

    看護師さんが何度も出入りして慌ただしく、容態も良くないのかも知れない。

    そこに年配の医師が姿を現し、やはり深刻な表情で何かを告げると大人たちはゾロゾロと医師の後に続いて部屋を出て行った。

    場所を移して病気についての説明を受けているのかも知れない。

    大人が周りから居なくなり、ベッドが良く見渡せるようになると、そこには自分よりも小さく、まだ赤ちゃんと呼ぶにふさわしいのではないかと思われるほどの子供が寝かされていた。

    その子の肌が異常な色をしていたのを今でもはっきり記憶している。

    黒と表現すべきか赤と表現すべきか、とても濃い紫色と表現すべきか。

    驚いて目が釘付けになり、ベッドの鉄柵を両手で持ってしばし固まっていたように思う。

    左列の入口近くに居る子は濃いピンクか赤のパジャマを着ていたので女の子だったのだろう。

    ベッドの上に立ち上がり、柵の上から覗くようにこちらを見ている。

    6人部屋だったはずだが、自分を含めてその三人の記憶しかなく、残りのベッドにどんな子どもがいたのか、何色のパジャマを着ていたのか何も覚えていない。

    もしかすると、その3人しか入院していなかったのかも知れない。

    次の日なのか、数日後なのか退院することとなった。

    入院して両親が病室を出る時には泣きもしなかったのに、退院の日には家に帰りたくないと大泣きし、また母親の逆鱗に触れて頭をペチンと叩かれながら病室を後にした記憶も脳の片隅に残ったりしているのであった。

  • 記憶 Memory-04

    過去の記憶

    まだ幼稚園にも通っていなかったと思われるので 2-3歳の頃だろうか。

    前回と似たような光景だが、勤めを終えた母親が老夫婦の家に迎えに来たので自転車の荷台の子供用イスに座って帰り道を走っていた。

    異なる点は、それが冬ではなく春か夏、道路脇の雑草の緑が濃い季節。

    周りはまだ明るく風景がはっきりと記憶に残っているので日の長い夏のわりと早い時間だったのかも知れない。

    前から車が来た訳ではない。

    猫や犬が急に飛び出してきた訳ではない。

    なぜだかハンドルを握る母親の手がガクガクと揺れだし、蛇行を始めたかと思ったら自転車は右へ右へと進んで道路から少し低くなっている草むらに向かう。

    もう道路はなくなり、自転車が右に大きく傾いて倒れ始めた。

    不思議なことに、ここから先は超スローモーションの映像として脳に刻まれている。

    バランスを崩して倒れかけた自転車。

    母親は左にハンドルを切って何か叫んでいる横顔が見える。

    自分の左足が高々と上がり、その先には青空が重なって見える。

    右に眼をやると道路より低くなっているところに生える雑草が徐々に大きくなって迫ってくる。

    子どもをかばおうとしたのだろう、体を抑えようと母親の右手が後ろに伸びて右腕を強くつかむ。

    地面に叩きつけられるという恐怖と、握られた腕の痛さが同時にやってきて気絶しそうになる。

    ここからは通常の速度の映像に戻り、ガサガサ、ゴロゴロと雑草の中を転がる自分と母親。

    大量の草がクッションになったのか、思いのほか衝撃もなく、フワフワした感じで着地した。

    そしてヨロヨロと立ち上がり、少し気が落ち着くとズキズキとした痛みが。

    それは、どこかを強打した痛みでもなく、草などでどこかを切った痛みでもなく、母親が力任せに握った右腕の痛みだった。

    ワンワンと泣く自分に駆け寄り、母親は
    「どうしたの?どこか怪我したの?どこが痛いの?」
    と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

    正直に握られた腕が痛いと言うと、母親はムッとして
    「お母さんが助けたから怪我もしなかったんだからね」
    とか
    「男の子なんだったら少しくらい我慢しなさい」
    などと言いながらズンズンと斜面を登って自転車にまたがった。

    心の中で
    「こんなにやわらかいなら何もしなくても怪我なんかしない」
    などとブツブツ文句を言いつつも、そんなことを口に出そうものならゲンコツが飛んでくるのは火を見るより明らかだったので黙ったまま自転車の後ろに乗った。

    それから長い間、父親や叔母、近所の人達に話をするたびに
    「私が守ったから」
    的な発言を繰り返していた母親のそばで
    「違うって」
    と心の中でささやかに突っ込んでいたりする日々が続いたのであった。

  • 記憶 Memory-03

    過去の記憶

    あれはいくつくらいの時の記憶だろう。

    その日は午後から雪が降り、夜にはすっかり雪景色となって道路には幾筋もの自動車のタイヤの跡が伸びて大蛇のように見える。

    両親が共稼ぎをしていたため仕事中に面倒を見てくれていた老夫婦の家からの帰りだろうか。

    ひどく母親は不機嫌だった。

    自転車の後ろの荷台から話しかけても返事はなく、ただガシガシとペダルを踏み、雪の中を少しよろけながら自転車は進む。

    自分が何かやらかしてしまったので怒っているのか、職場で嫌なことがあって機嫌が悪いのか理由は分からないが、とにかく怒りのオーラが背中から立ちのぼっているように見える。

    幼いながらも、こんな日は何を言っても無駄であり、まともに会話などしてくれないことを十分に思い知らされていた自分は、老夫婦の家から持ち帰ったオモチャを手に気を紛らわせていた。

    自転車が揺れたのか手を滑らせたのか定かではないが、遊んでいたオモチャが手から離れて落下し、白く積もる雪に穴をあけた。

    母親にとまってほしいと言ったが聞き入れられず、自転車は先へ先へと進んで雪にできた穴はどんどん遠くなる。

    もう一度とまってくれるように言ったが母親は返事もしない。

    たぶんお気に入りのオモチャだったのだろう、動いている自転車の荷台からズリズリと滑り落ちるように着地し、よろけてお尻をしこたま打った。

    お尻が痛いやら、オモチャがなくなって悔しいやら、母親が口を聞いてくれないのが悲しいやらで大泣きしながら、それでも這いつくばって落としたオモチャを必死に探した。

    異変に気づいて母親が引き返して来たが、一緒に探してくれる訳ではなく鬼のような顔をしたまま無言で腕をつかんで自転車に乗せようとする。

    どうしてもオモチャを探したかったので必死に抵抗すると、母親の目がますます吊り上がり、それまでの倍以上の力で腕を引っ張って幼い体を振り回す。

    そんな母親と家に帰るのが嫌だったのか、どうしてもオモチャを探したかったのか覚えていないが、自分も負けじと抵抗していた記憶がある。

    その後、オモチャを探すことができたのか、どうやって帰ったのかまでの記憶はなく、ただ悲しくて泣きながら抵抗しているまでの記憶だ。

    あれはいくつの時の記憶だろう。

    そしてあの日、なぜ母親は機嫌が悪かったのだろう。

  • 記憶 Memory-02

    過去の記憶

    まだ乳幼児だったのでハッキリとした記憶が残っているわけではないが、以前の雑感にも書いているようにとにかく体が弱く、小児ぜんそく持ちだったのに加えて世の中で流行する風邪のすべてに感染するほどの病弱者で、頻繁に病院通いをしていたらしい。

    医者にもすっかり顔を覚えられ、「また来たか」とか「毎度さん」などと言われていたとのことだ。

    そんな会話のことなど記憶にあるはずないが、窓際に置かれたスチール製の机、その横にある患者が座る用の椅子、左側の壁にはガラス扉のついた棚があり、中には本とか分厚い辞典のようなものが入っている風景だけはボンヤリと脳の片隅に残っている。

    今ほど医学も医療器具も発達しておらず、銀色の装置の中にはシュンシュンとお湯が沸き、その中に何本もの注射器が並べられている。

    たぶん当時は使い捨てではなく、熱湯消毒して何度も注射器を使い回していたのだろう。

    あれだけ病院に通い、まだ赤ちゃんなので腕が細すぎるという理由から、太ももの筋肉が今でも陥没しているくらい何度も注射されたのに、肝炎ウイルスに感染しなかったのは奇跡的なことかも知れない。

    それだけ注射をされたなら、普通の子供であれば病院に行きたがらず、看護師さんや医者の白衣を見ただけで恐怖におののき、呼吸困難になるのではないかと心配されるくらい大声で泣き叫び、体の水分がなくなるのではないかと思われるくらいの涙を流しそうなものであるが、どういう訳か人見知りもせず医者や看護師の顔を見てニコニコと愛想をふりまく赤ちゃんだったらしい。

    さすがに注射で針を刺された瞬間は 「ギャッ」 と泣くものの、それが終われば何事もなかったように機嫌よくしており、みんなから可愛がられたのだと言う。

    そう言えば今でも病院に行くのは面倒であるものの、体を診られること自体は嫌でも怖くもない。

    きっと赤ん坊のころから通い詰め、病院に対する抵抗感が皆無に近いのだろう。

    実は男のくせに便秘気味であることは、この雑感や独り言でたまに触れている通りである。

    それは持って生まれた体質らしく、幼児のころから便が出ずに親も困っていたらしい。

    確かに記憶しているのは、オマルにまたがった自分を母親も父親もニコニコする訳ではなく、必死の形相で 「ほれ、う~ん!ってしなさい」 とか言っている姿だ。

    一人でトイレに行けるようになってからも、あまりにもお通じが悪いのでドアを開けたまま母親が仁王立ちになって 「もっと頑張んなさい!」 などと激昂を飛ばしたりしていた。

    ただでさえ便意をもようしていないのに、たとえ母親であれ人に見られたままの状態で、ガンパレと言われたからと言ってブリブリっと出てくれるほど人間の体は単純にできてはいないのである。

    そんなことが何日も続くと、いよいよ病院に連れて行かれ、見ただけで気絶しそうになってしまうほど大きな注射器みたいなもので浣腸される。

    少しして腸の当たりがボコボコと音を立て始めると、愛想も色気もない単に白いオマルに座らされて看護師さんがニコニコしながら 「でるかなぁ~?」 と優しく声をかけてくれる。

    その横から椅子に座ったまま体を斜めにし、真剣な顔つきでこちらを凝視する母親。

    その視線を無視し、やさしい看護師さんの顔を見ながら 「う~ん」 とすると、カランコロンと妙に乾いた音がした。

    看護師さんはオマルの中を見て 「まるでウサギのウンチみたいだね」 と笑う。

    確かに、こそにはパチンコ玉より少し大きい程度の真ん丸な黒い物体が三粒ほど転がっていた。

    この話しにオチはないが、この記憶はいったい何歳くらいの出来事なのだろう?

    忘れなければ次の帰省の際にでも母親に聞いてみようと思うが、昔のことは覚えているクセに最近のことや、やらなければいけないことなどは次から次に記憶の彼方に消えてしまう今日この頃なので、きっと聞くのも忘れてしまうに違いないと予想される。