タグ: 記憶

  • 記憶 Memory-21

    過去の記憶

    本州と少し遅れ、今週から北海道の子どもたちの短い夏休みが始まった。

    朝の散歩で姿が見られないのは寂しいが、来月の 20日前後には学校が始まるのでそれまでの辛抱だ。

    今は夏休みでも塾に通って勉強したり、両親とも働いていると学童保育所に通ったりしているのだろうから、真っ黒に日焼けして遊び回っている子どもは少ないのだろう。

    自分が子供の頃は、1-2年生くらいまで夏・冬休みの宿題があったが、それ以降は自由研究のようなものしかなく、提出が義務付けられた印刷物の宿題というものがなかった。

    それをいいことに、日が昇ってから沈んで暗くなるまで川や山や野原、学校のグラウンドや材木置場、公園や家の屋根の上などで遊びまくっていたものである。

    冬は冬でスキーやスケートに興じ、雪の中を転げ回って真っ白になりながら遊んでいた。

    そんな楽しかった記憶はしっかり残っているのだが、一部スッポリと抜けている部分がある。

    それは昼ごはんの記憶だ。

    いつ、どこで、なにを食べていたのか全く思い出せない。

    朝食の記憶はある。

    両親共稼ぎだったので朝は慌ただしく、そんな中でも朝ごはんを食べていたし、朝起きるのが面倒になった中学時代はゆっくり一人で朝ごはんを食べて、ゆっくりと出かけたので遅刻の常習犯、高校の朝は家では食べず、学校に着いてから早弁したり買食いしたりしていた。

    晩御飯に良い思い出はなく、毎日のように母親であるショウコの愚痴を聞かされ、感情がたかぶると涙ながらに職場での辛い出来事を話したり、逆に気に入らない人の話しをして怒り出したりしていたので、テレビドラマなどで見る楽しい会話の明るい食事をした記憶がない。

    良きにつけ悪しきにつけ、とりあえずは朝と夜の食事の記憶はあるのだが、昼ごはんの記憶は白紙、無の状態である。

    よく記憶喪失の人が過去を思い出せずに苦悩するシーンをドラマで見たりするが、無であることが少し恐ろしかったり気持ち悪かったりするほど一切の記憶が残っていない。

    小学校から中学校まで給食だったので、学校でみんなと食べている記憶、高校で弁当を広げている記憶も残っているが、夏休み、冬休みなどの記憶はゼロだ。

    過去の雑感で幼児のころから小学校を卒業するまで、両親が仕事に行っている間は知り合いの家に預かってもらっていたことは書いた。

    その家での食事の記憶は、年に何度か両親そろって職場の付き合いで帰りが遅くなることがあったので、その際に晩御飯を一緒に食べた記憶は残っている。

    しかし、休みの日に昼ごはんを食べた記憶はない。

    北海道の夏休みは短いとは言え、24-5日間も昼ごはん抜きで過ごすはずはないと思われる。

    小学校の高学年になると祖父母の家に一人で行き、休みの初めから終わりまで過ごしていたことが何度かあるが、その際に昼ごはんを食べさせてもらった記憶はしっかり残っているので、すべての昼ごはんの記憶を失っているわけではない。

    中学、高校になれば家でなど食べず、不良仲間と喫茶店などで食べていたのかもしれないし、菓子パンをかじっていたのかもしれないが、明確な記憶がなく、頭の中は真っ白な状態だ。

    いったい夏休みや冬休みの昼ごはんはどうしていたのだろう・・・。

  • 記憶 Memory-20

    過去の記憶

    今までは子供の頃の記憶、記憶に残っていることを書いてきたが、今回は全くの逆で、どうしても思い出せないこと、逆立ちしても何をしても記憶の奥深くから取り出すことのできないことを書いていこうと思う。

    雨の日の散歩をしていると、子どもたちが傘をさしていたり低学年の子はカッパを着せられたりしているが、自分が子供の頃はどうしていたのだろう。

    小学生の頃、いや、中学生になっても雨の日にどうやって登校していたのか思い出せない。

    雨が降ったからといって学校を休んでいた訳でもないだろうが、傘をさして登校した記憶がないのである。

    そもそも何色の傘を使っていたのか、そして、学校に着いてから雨具をどうしていたのか思い出せない。

    自分などそそっかしいので学校に傘を忘れて帰ったことも一度や二度ではないと思われるのだが、その一切の記憶がスッポリと抜け落ちていて脳の一部に空白地帯ができている感じだ。

    小学校から中学校までの 9年間、晴れた日ばかりのはずはないのに登校の際の雨の記憶がないに等しい。

    いったい雨降りの際はどうやって学校に行っていたのだろう。

    次に思い出せないのは小学校での上履きだ。

    記憶している限りでは、学校の入口にロッカー的なものや靴箱的なものはなかったように思う。

    ということは、靴を履き替えた後はどうしていたのか思い出せない。

    教室の後ろに棚みたいなものがあったので、そこまで持ってきて入れたりしていたのだろうか。

    いや、やはり記憶違いで入り口にロッカーなり靴箱なりがあったのだろうか。

    中学生の頃は素行がよろしくなく、家で勉強もしなかったので教科書やノート、筆記用具などの全ては教室の机の中に入れっぱなしにしてあり、手ぶらで学校に行っていた上に校内へは土足のまま入っていたので記憶がなくて当然だが、まだスレていない小学校の頃は何をどうしていたのだろう。

    そして同じように記憶が無いのは登校前の朝ごはんだ。

    たぶん朝食は抜いていなかったので何かしら食べていたと思うのだが、それがパンだったのか米だったのか、はたまたシリアル系だったのか、一切の記憶がない。

    パンに目玉焼きだった記憶もないし、白ご飯と味噌汁だった記憶もないし、シリアルに牛乳だった記憶もなく、子供の頃の自分は朝に何を食べていたのだろうと不思議に思ってしまう。

    両親共働きだったので、朝はバタバタしていたに違いない。

    中学になると親より家を出るのが遅かったので勝手に何か食べてから家を出ていた可能性もあるが、小学校の時はどうだろう。

    一家三人でにこやかに会話しながら朝ごはんを食べた記憶など皆無なのである。

    そして、やっぱり思い出せないのは寝間着だ。

    パジャマを着て寝ていたのは間違いないのだが、着替えている自分の記憶がない。

    いつも記憶がなくなるほどの睡魔に耐えて着替えていたはずもなく、毎日のことであるはずなのにどうやって着替え、脱いだ服をどうしていたのか思い出せずにいる。

    小さな頃は親が翌日に着るものを用意していてくれただろうが、中学生の頃はどうしていたのか。

    中学は学生服なので朝はそれを着たら良いが、前日の夜に脱いだものはどこにどうやっておいたのだろう。

    自分の性格からいって毎回タンスに入れていたはずはなく、かといってハンガーにかけて部屋の壁に吊っておくようなこともしていない。

    毎回たたんでどこかに置いていたのか、それとも脱ぎ散らかしたままにしていたのだろうか。

    大きなイベントや非日常的なこと、友だちと楽しく過ごしたことなどは覚えているが、あまりにも日常的で、あまりにも繰り返し行うことは無意識にやっているからなのか、ほとんど覚えておらず、記憶を無理に引っ張り出そうとしても出てこないものなのかも知れない。

    それとも自分がアホすぎて覚えていないだけなのだろうか。

  • 記憶 Memory-19

    過去の記憶

    今はなくなってしまったが、子どものころ家の近所にあった会社は土木関連事業から自動車の整備まで行う複合企業だった。

    うず高く積まれた古タイヤ、廃車置場にもなっている敷地内は、子どもにとって恰好の遊び場である。

    言うまでもなく外を飛び回って遊んでいた自分も例外ではない。

    何十本も綺麗に重ね、高く積まれたタイヤをよじ登り、頂上からタイヤの穴を下りて遊んだりしたものだ。

    下まで行っても単に地面があるだけなので何が楽しかったのか今となっては理解できないが、とにかく意味もなくタイヤの穴の中を出たり入ったりしていたのである。

    廃車となったトラックや自家用車に乗り込んで運転する真似をしてみたり、ボンネットや屋根に上って飛び跳ねたりもした。

    自動車の部品を並べている鉄骨製の大きな棚に登って遊んだり、トラックの荷台で遊んだりと、そこに行けば退屈することなく暗くなるまで遊べたのでる。

    そして、冬になれば雪が積もって足元が柔らかいので大型トラックの荷台から前方宙返りやバク宙で飛び降りたりしていたが、今から思えば廃車を扱う会社の敷地内なので、地面に何が落ちているか分かったものではなく、もし鉄骨が縦になったまま雪に埋もれていたら、四角くて分厚い鉄板の角が上を向いて雪の中にあったら、大怪我どころか死に至っていたかもしれないと背筋のあたりがゾワゾワしないでもない。

    しかし、無鉄砲で怖いもの知らずの子どもは余計な心配などせず、2メートルも 3メートルもある大きな車の上からニコニコしながら飛び降りていた。

    極寒、豪雪地帯ならではのことだが、屋根に厚く積もった雪が凍り、そのままゆっくりと降りている最中にまた雪が積もるということを繰り返し、それが屋根から地面まで繋がって、まるでサーフィンで波の中をくぐれるチューブと似たような状態になることがあるのだが、北国で暮らしたことのない人、極寒&豪雪地帯で暮らしたことのない人に文字で書いて説明しても伝わららないだろう。

    なのでイメージに近い写真を貼っておく。
    827bd764e1a26622e3c18c7dadd1c4d0

    これは奥行きが 4-5メートル程度だと思われるが自動車整備工場も事務所もある大きな建物だったので、これの4-5倍、つまり 20メートルも 30メートルも続く雪のチューブは子供心に迫るものがあり、否応無しに冒険心に火がついてしまうというものだ。

    真っ暗で先の見えない雪のチューブの中を進み、途中で遊んだりしながら反対側から外に出る。

    これも、無鉄砲で命知らずの子どもだからこそできる芸当であり、大人となった今では崩れ落ちるのが心配で中に入ることなどできないだろう。

    冬は割れる心配もせずに凍る川の上で遊んだり、夏は流される心配もせずに川で泳いだりもしていたが、今から考えると恐ろしいことこの上なく、よく死なずに済んだと思うことばかりである。

    話しは廃車置場に戻るが、ある夏の日、一台のブルドーザーが敷地の中心に置かれており、働く車に目がない子どもが何人も集まって運転席に座ったりボンネットによじ登ったりして遊び、運転席の横にあるレバーをガチャガチャ動かしたりもしていた。

    レバーの横にあるスイッチを押したりダイヤルを回したりしていると、何かの拍子にブルドーザーが
    「ブロロン」
    と音を立てた。

    それに強い興味を持ったので自動車で言うならアクセルに相当すると思われる足元のペダルを踏み込みながらまた同じような操作をすると、何とエンジンがかかってしまったのである。

    それに慌てふためき逃げ出す仲間もいたが、自分は何とかエンジンを止めようと必死になっていた。

    回したダイヤルのようなものを反対に回せば止まるのではないかと思ったが、何をどうやっても唸り声のような音を立てたままエンジンは止まってくれない。

    そのまま放置してその場から逃げることも考えないではなかったが、純朴な心を持った少年は何とかして解決しようと無い知恵を絞り、仲間の父親がその会社に勤めていることを思い出した。

    その仲間を連れて会社の事務所に行き、その父親に事情を話してブルドーザーのエンジンを止めてくれるように頼んだが、父親はニヤニヤと笑いながら工場部門にいるササキという人にお願いしろと言う。

    実はこのササキという人、子どもたちから恐れられている人で、それまでにも何度となく叱られて身の縮む思いをしていたのである。

    それを知っていて仲間の父親はニヤニヤしていたのだろうが、顔を思い出しただけでも泣きそうになってしまう。

    仕方なくガクガクと震える足をひきずりながら工場に行き、そのササキさんに事情を話した。

    ただでさえ恐いササキさんの顔がみるみる大魔神のようになり、真っ赤になって頭から湯気が出そうな勢いだ。

    と、その時、ササキさんが近くにあった大きな大きなスパナを手に取り、
    「このクソガキどもがぁ!」
    とブンブン振り回しながら鬼のような形相で追いかけてくるではないか。

    大人になった今となっては、二度と子どもたちが危険なことをしないようにという配慮から、ここはこっぴどく叱るべきだと判断しての行為だと理解できるが、その時は本当に殺されると思い、もつれる足を必死で動かして逃げ惑った。

    仲間と遠くまで走って逃げ切った後は放心状態となってボーっとしまま動けない。

    泣きじゃくっている仲間に申し訳ないという気も沸々と湧いてくる。

    そう、何を隠そう、ブルドーザーのエンジンをかけた張本人は自分だったりするのであった。

  • 記憶 Memory-18

    過去の記憶

    あれはいったい誰だったのだろう?

    自宅から小学校を通り過ぎて反対側に住んでいた友達。

    いや、本当に友達だったのだろうか?

    彼とは夏の思い出しかなく、寒い時期に遊んだ記憶が皆無だ。

    頭に浮かぶのは、いつも半ズボンに白いランニングシャツの姿。

    キッチョと呼ばれていたが、その意味は分からない。

    苗字が木村とか木下とか、名前が公章とか公彦など、とにかくどこかに『き』が含まれていたのかもしれないが、彼の本名を知らないので実のところは分からないままだ。

    あの暑い夏の日、材木置場で朽ち果てた木の中からクワガタムシやカブトムシを掘り出すのに誰もが必死になっていた。

    あまりにも真剣だったので楽しく会話をした覚えもないが、彼はなぜかそこでは輝く存在だったのである。

    もちろん虫を探していない時は話しもしたし、一緒に原っぱを駆けまわって遊んだ。

    ヘトヘトに疲れて家に遊びに行くと、彼のお母さんがオレンジジュースを飲ませてくれた。

    小学生の一時期、とても仲良く過ごしたが、今から考えるとあれは誰だったのか。

    同じクラスでもなければ他のクラスにもいなかったので同級生でないことだけは確かだ。

    下級生だったのか、上級生だったのか。

    いや、もしかすると、かなり遠くまで遊びに行っていたので他校の生徒だったのかも知れない。

    子供同士というのは、たとえ初対面であっても最初のうちは警戒したり様子を見あったりするものの、小一時間もしないうちに距離が狭まり、打ち解けて仲良く遊んだりできるものである。

    実際、学区内とは程遠い公園で見ず知らずの子供同士で遊んだりしていたし、同じ学校だったとしても同学年だけではなく、上級生や下級生が入り乱れて遊んでいた。

    今から思えば、あの時の経験で上下関係を学んだりコミュニケーションの方法を学んだりしたと思う。

    中学では足の速さを買われてスカウトされ、一応は入部したものの一週間も経たないうちに練習が面倒になって部活動に参加しなくなった典型的な幽霊部員で、高校時代は何にも属さずにいたので体育会系の厳しい上下関係を学んだことはない。

    それでも社会に出てから先輩後輩、上司と部下の立場をわきまえることができていたのは小学校時代の経験と、不良時代の経験が大きく影響したものと思われる。

    不良などやらない方がマシだが、幼少期に様々な年齢を相手に遊ぶのは大切なことなのではないだろうか。

    現代っ子は外で遊ぶ機会もなく、小学校低学年から塾に通い、きょうだいもなく温室で大切に育てられるので広い年齢層と一緒に過ごす機会に乏しい。

    それゆえにコミュニケーションの方法を知らず、上下関係に疎い、社会人としては実に欠陥の多い人種が量産されることになってしまっているような気がする。

    話しを元に戻せば子供時代の夏の思い出に欠かせないキッチョというアダ名の彼。

    帰省の際、買い物に行くタクシーの中からあの頃の風景を探してみたが、そこにあったはずの材木置場は見当たらなかった。

    立ち並ぶ家も変わり、あったはずの原っぱも見つからない。

    あれは誰だったのだろう。

    キッチョと呼ばれていた彼は今頃どうしているだろう。

  • 記憶 Memory-17

    過去の記憶

    ここ数日は妙に暖かい日が続いているが、それが終われば冬本番、北海道内各所でスキー場がオープンすることだろう。

    生まれ育った街は四方を山に囲まれた盆地であり、とても雪深い極寒の地だったのでウインタースポーツが盛んだった。

    市営のスケートリンクもあれば、各学校では校庭に水をまいてリンクを作っていたので誰もがみなスケート靴を持っており、冬は体育の授業でもスケートの時間があったほどの土地柄だ。

    周りが山ばかりなのでスキー場が 3箇所もあり、超々初心者からプロまで誰もが楽しむことができる。

    リフトや売店などなく、設備は整っていなくてもスキーを楽しめる斜面は街のあちらこちらにあったので、多くの子どもがスキーやソリ遊びをしたり、ただ斜面を転がって遊んだりしていた。

    おまけに豪雪地帯であるため、学校のグラウンドに除雪車が雪を積み上げて巨大なスロープを作り、体育の授業でスキーをしたり授業が終わってから遊んだりしていたものである。

    子どもの頃からスキー、スケートに馴染み、体育の授業にまでなっていたのだから、余程の運動音痴でもない限りは誰もがスキーもスケートも滑ることができた。

    もちろん自分もそうだったので、今でも頭の中ではスケートも滑ることができるしスキーだって見事に乗りこなせる。

    ただし、もう何十年という単位でウィンタースポーツから離れているので筋力、体力がついて行かないであろうし、体型も見事に変わってしまったので頭の中にあるイメージとは大きくかけ離れ、実際には無様な姿をさらすことになってしまうことだろう。

    子どもの頃は学校が終わるとそのまま校庭のスケートリンクで遊んだりしたし、家から徒歩20分くらいの山に行ってスキーをしたりして冬を過ごした。

    その山は管理された場所ではないのでリフトもなく、10分も20分もかけて斜面を登らなければならないのに、滑り降りるのは一瞬で終わってしまう。

    設備の整ったスキー場は車で 10-15分の場所なので一人で行くことはできないし、リフト代もばかにならないので毎日は通えない。

    それでも冬になれば 1シーズンに何度もスキー場に行っていた。

    親に送り迎えしてもらうこともあったが、多くの場合はバス代とリフト代をもらって一人でスキーをしに行く。

    行きはバスに乗るのだが、スキー場に着くと楽しくて仕方なく、帰りのバス代まで使ってリフトに乗ってしまい、泣きながら 2時間近くかけて家に帰ってきたことが何度もある。

    まだ体力が残っている時は歩いて帰るが、遊び疲れてヘトヘトになってしまい、重いスキー靴をはいたままスキーをかついで歩くのが面倒な時は、ヒッチハイクをして帰ってきたりもした。

    狙い目は自家用車よりも大型トラックで、日も傾いた夕暮れ時に幼い子供がぐったりした様子で手を挙げれば心配して停車してくれる。

    運転席から降りてきて
    「どうした?」
    と声をかけてくれたら
    「家に帰りたいけどバスに乗るお金がない」
    と情に訴えかける目で答えれば間違いなくトラックに乗せてもらえたものだ。

    家のすぐ近くで降ろしてもらい、元気いっぱいに家のドアを開ける。

    ヒッチハイクして帰ってきたなどと知らぬ親はいつもの調子で
    「おかえり」
    と言うだけだ。

    スキーであれスケートであれ、何不自由なくできる環境にあったにも関わらず、有名なプロスキーヤーもプロスケーターも排出できず、オリンピック選手も皆無な街も珍しいのではないだろうか。

    自分の場合は人より上手になりたいという向上心がなく、ただ楽しく遊んでいただけなので一定以上のレベルに達する訳などないが、同級生の中にはリフト乗り放題のシーズンパスを親に買ってもらって毎日のようにスキー場に通っていたやつも何人かいたし、鬼のように速くスケートを滑るやつも、フィギュアスケートで氷上をクルクル回る女子もいたのに誰もオリンピックを目指さなかった。

    きっと人と競い合うことが苦手だったり、たゆまぬ努力をするのが苦手だったりする、ぼんやりした土地柄だったのだろう。

  • 記憶 Memory-16

    過去の記憶

    夏休みもまだ中盤で、子どもたちは真っ黒になって遊んでいると思いたいところだが、今どきの子供は外で遊ぶことも少ないので日焼けなどしていないかもしれない。

    それでも最後の最後になって泣きながら宿題に取り組むのは今も昔も変わらないだろうから、まだまだ余裕で休みを謳歌しているだろう。

    昔と違って今は簡単に渡航できるので海外で過ごす家族も多いだろうし、円安の影響から国内旅行を楽しんだり帰省する人も多いに違いない。

    自分が小学生の頃は父方の祖父母も健在で、休みのたびに遊びに行っていた。

    父親は 7人兄弟で、その末っ子はまだ高校生だったので祖父母の家で暮らしており、自分にとっては叔父にあたるその末っ子と遊ぶのが楽しみだったし、父親にとっては実家でのんびりできるので楽しみにしていたが、母親は色々と気を使うこともあって渋々ながらの帰省だったようだ。

    できるだけ長く祖父母宅にいたい父親と自分、一刻も早く帰りたい母親だったが、両親共稼ぎだったので休める期間は限られており、長くても 2-3泊するのが慣例だったように思う。

    最初は親と一緒に帰っていた自分だったが、家に戻ってもきょうだいがいる訳ではなく、友だちこそ多かったものの昼は一人で食事をしなければならないし、ちょっと家の中を散らかしたり外で遊んで泥だらけで帰宅するとガミガミと叱られたりする生活だったので祖父母宅にいるほうがずっと楽しかった。

    まだ高校生の叔父は色んな遊びを教えてくれるし、野山を駆けまわってどんなに泥だらけになろうが、裏を流れる小川で水浸しになって遊ぼうが祖父母に叱られることもなかったので、子どもにとっては天国のような生活だったのである。

    たぶん小学校の 3年生くらいだったと思うが、それまで文句も言わず両親と一緒に帰っていたのに祖父母宅を出る直前になって
    「帰りたくない」
    と言ったものだから母親は腰を抜かさんばかりに驚き、
    「ななな、な、何を言ってるのっ!一緒に帰らなきゃダメでしょっ!」
    と怒りで目を三角に吊り上げつつも、祖父母の手前、極めて冷静なふりをして必死に説得を試みたが、自分はまだ叔父と遊びたかったし、何をしても叱られない家で過ごしたかったのに加え、初孫である自分と一緒にいたい祖父母も
    「そうだよね~まだ帰りたくないよね~」
    などと参戦し、言い争いは泥沼の様相を呈する。

    翌日から仕事の父と母はどうしても帰らなければならず、このまま押し問答をくり返しても仕方ないので、帰りたくなったら父親が迎えに来るという条件で合意に達し、一人で祖父母宅に残ることになった。

    2-3日もすればホームシックになり、帰りたいと言い出すだろうと母親は高をくくっていたらしいが、待てど暮らせど我が子は自分のもとに戻らず、とうとう夏休みの最終日まで離れ離れの生活をすることになったのである。

    それに味をしめた自分は行動が大胆になり、次の冬休みは年末年始の帰省を待たず、電車に揺られて 3-4時間の距離にある祖父母の住む街に一人で行くようになった。

    御用納めが終わって両親が来ると、祖父母と一緒になって
    「いらっしゃい」
    などと言って母親から鬼のような形相で睨まれたりしながらも、すでにすっかり打ち解けた叔父とか祖父の後ろに逃げて影からべ~っと舌など出していたりしていたものだ。

    大晦日、正月と実家で暮らし、親の休みが終わりになっても自分は一緒に帰らず、家の前に祖父母と並び、
    「またね~」
    などと父親の運転する車に手を振って見送った。

    そして冬休みの終わりになると電車に揺られて親のもとに帰る。

    次の夏休み、また冬休み、そしてまた次の夏休みも同様に、初めから終わりまで祖父母宅で過ごすという生活は小学校を卒業するまで続けた。

    最初こそ祖父母と過ごすことを快く思っていなかった母親も、休み中の面倒は見てもらえて食事の心配もしなくてよく、気兼ねなく勤めに出られることを喜んでいたのではないだろうか。

    祖父母は孫と一緒に過ごせて嬉しく、自分は小うるさい母親から解放されて伸び伸びと遊んでいられるのだから、それですべてが丸く収まっていたのである。

  • 記憶 Memory-15

    過去の記憶

    度忘れは胴忘れとも書くが、その【 ど 】の意味は、単にど真ん中、ど根性などと同様に意味を強めるための【 ど 】であって、医学的意味も言語的意味ももたないらしい。

    度忘れとは、よく知っているはずの事をふと忘れてしまい、どうしても思いだせないことだが、そんなことは今の自分にとって日常茶飯事であって決して珍しいことでもなく、加齢とともに悪化の一途をたどるのを覚悟しなければならないだろう。

    以前から 『独り言』 やこの雑感に何度も書いているように、『お買い物日記』 担当者との日常会話もそれはそれはひどいものであり、まるで数学の虫食い算のように穴だらけの中、前後の文脈から何とか穴を埋めつつ予測変換などしながら答えを導き出して会話が成立する。

    ある意味、それだけ頭の体操になったりしているのかもしれないが、答えが出ない時は会話そのものが成り立たないので大変だ。

    会話に出てくる副題だったり関連する単語だったりするのなら大きな問題はないが、それが主題だったりするので入り口にたったままドアを開けられず、一歩も先に進めないという恐ろしいことになってしまう。

    たとえば芸能人の話しをしようとした場合、その人物の名前を思い出すところから始まり、
    「あれ誰だっけ?」
    というのが会話のスタートとなる。

    「ほら、昔何とかいうドラマに出てた目の大きな女優」
    ・・・こうなると、もう手がかりは目しかない。

    そして、目の大きな芸能人は山ほどいるので手がかりとして何の役にもたたない情報であり、結果、名前を特定できず会話をスタートさせることすらできないのだが、それでも諦めきれずに
    「いや、最近は見かけないと思ってさ」
    などと言ってはみるものの、年間何百という芸能人が排出され、残るのは一握りの数人である現状を鑑みると対象の候補者は数千から数万の単位となり、特定するのは困難を極めるどころか限りなく不可能に近い状況になってしまう。

    それでも、長いこと一緒に暮らしていると不思議に意思の疎通が図れるものであり、互いの穴を埋めあってなんとか会話が成立してしまうのは良いことだとは思うが、それに甘んじていると他の人との会話がまともにできなくなってしまうのではないかという不安がなくもない。

    度忘れとは別に、どうしても覚えるのが苦手な人名というものがあるらしい。

    自分の場合、大阪に暮らしていた時のご近所さんの名前をどうしても覚えられず、何度も 『お買い物日記』 担当者に聞いて呆れられいたが、それは今でも同じで当時の話しをしていて、その苗字を言おうとするとどうしても思い出せないことが多い。

    確かにあまりない名字で耳馴染みがないこともあるが、逆に珍しい苗字であればインパクトが強くて覚えられそうなものなのに、どうしても記憶できないのが不思議だ。

    芸能人にも記憶できない人がいるのだが、それは女優の米倉涼子だ。

    今、この米倉涼子のことを書こうとしていたのに名前を思い出すのに必死だったくらいで、何度聞いても、何度覚えようとしても、どうしても記憶することができない。

    いや、前述のご近所さんだった方の苗字にしても、最終的には思い出すので記憶はしているのだろうが、どうしてもその引き出しが錆び付いていてスムーズに開かないのである。

    米倉涼子を思い出そうとすると、涼子はすぐ出てくるのに苗字は出てこず、広末涼子を思い出してしまって頭の中が広末でいっぱいになり、余計に米倉の入り込む余地がなくなるのだろう。

    サラリーマン時代、年間の出勤日が 200日として 5年で 1,000日、それを考えると何千という単位で繰り返していたことが思い出せず、とてつもない恐怖に襲われることがあった。

    数年に一度のことではあったが、ネクタイの結びかたが分からなくなるのである。

    出勤前の着替えでワイシャツを着てスーツのパンツを履き、首の後ろにネクタイを回した所でピタリと動作が止まり、それから先、何をしたら良いのか右手を動かすべきか左手を動かすべきか、どちらの手にあるネクタイを上にすべきか何も思い出せない。

    そんな自分が怖くなりつつも必死に結ぼうとするのだが、焦れば焦るほど頭のなかは真っ白になり、このまますべての記憶を失ってしまうのではないかという底知れぬ恐怖感に包まれる。

    正確に計測したことなどないが、その度忘れしている時間を長く感じていてもきっと数分間、いや、もしかすると数十秒のことかもしれず、結局は思い出して遅れずに家をでることができるのだが、あのなんとも言えない感覚は二度と味わいたくない。

    今はネクタイをすることなど稀になってしまったので、度忘れではなく本当に結び方を忘れてしまう危険性が高くなってはいるのだが。

  • 記憶 Memory-14

    過去の記憶

    今回は今までのネタと異なり、子供の頃の記憶ではない。

    ましてや自分の記憶にまつわることでもないことを取り上げることになるが、実際、身近に起こった出来事ではある。

    若いころに勤めていた会社はいわゆるコンピュータ産業で、世にパソコンというものが広まる時期であったので技術者の平均年齢は 20代前半と若く、エネルギーに満ち溢れた職場だった。

    そのエネルギーは休憩時間にも発散され、昼休みともなると外にあるテニスコートで汗を流す者、体育館でバスケットに興じる者など様々だったが、スポーツに興味のない自分は社屋の裏にある未開の地を進み、流れる小川に何か生き物はいないか観察したりしていたのである。

    他にも何人か同じように休み時間を過ごす仲間がいたのだが、そのうちの一人が足を滑らせ仰向けに倒れたところ、そこに大きめの石があって頭部を強打してしまった。

    幸いに怪我もなく、大事に至らなかったと思った矢先、今自分がどこにいて何をしているのか分からないと言い出す。

    今は会社の裏手にある林の中であると、何度も教えているのに 30秒もしないうちに今どこにいるのかと尋ねてくる。

    普段から冗談を言ったりする奴だったので、最初はふざけているのだろうと思っていたのだが、あまりにも執拗に場所を聞いてくるので冗談ではなく本気で言っているのか、本当に分からないのか確認したところ、転ぶ寸前までの記憶はあるが、それ以降はまったく覚えておらず、今している会話すら数秒後には記憶から消えるのだと言う。

    これは大変なことになったと状況を上司に説明し、打ちどころが悪かったに違いないと脳神経外科に連れて行くことにした。

    レントゲンや脳波の検査などが終わって医者が説明するには一過性全健忘(TGA)であり、何かのきっかけに突然発症するが、通常は 24時間位内に自然治癒するのだという。

    今回の場合は頭を強打したことによるものだが、外傷も内出血も骨折もないので特に治療の必要もなく、一晩寝て起きれば治っているだろうとのことだった。

    医者や本人が言うには記憶できないのは頭を打った瞬間からのことで、それ以前の記憶はあるので一人で帰宅できるとのことだが、やはり心配なので先輩の車で送り届けることにした。

    その車の中でも 30秒おきに、それも延々と今日は何月何日なのかと聞かれて閉口したが、しつこいとかうるさいとか叱っても仕方のないことなので、ため息混じりに今日の日付を 30秒おきに、そして延々と答えていたところ、その会話とも言えない虚無な言葉のやりとりが急に止まる。

    そして、すでに車内ではケンボーと呼ばれるようになってしまった健忘症の彼が
    「今、道路に金髪のネーチャンの本が落ちていた」
    などと言い出す。

    一過性健忘であり、今は何も記憶できないという症状ではないのか!?

    という大きな疑問を抱きつつも、金髪ネーチャンにのみ反応し、そんなことだけは記憶できる彼の性格というか脳のことが可笑しくてたまらない。

    自宅に送り届けても、30秒おきに今日の日付を、47秒おきに金髪ネーチャンのことを繰り返す彼を見守っていると同棲中の彼女が知らせを聞き、仕事を早退して帰宅したので後を託して会社に戻った。

    翌日、医者の言う通り症状は治まり、見事に社会復帰した彼は言う。

    どうしても道路に落ちていた金髪ネーチャンの本が気になったので見に行くと、それは金髪ロン毛のロック歌手の写真が載った 『ヤングギター』 だったと。

    それから何カ月もの間、彼は職場でエロケンボーと呼ばれるようになったのであった。

  • 記憶 Memory-13

    過去の記憶

    過去の雑感で何度か触れたように、実に腕白で実に野性的に育った自分は子供の頃から怪我が絶えなかった。

    近所を走り回って転んだりするものだから両ひざはいつも傷だらけ。

    草むらをかき分けて遊ぶものだから手足には葉っぱによる切り傷だらけ。

    少し前に書いたように針金を振り回して負った傷が頬にあるし、神社の横の急な坂道を自転車で転げ落ちたときに負ったヒザの傷も未だに残っている。

    自動車整備工場の裏にある廃車が積み上げられた場所など格好の遊び場で、ボンネットや屋根の上を飛び回り、足を踏み外して落下するなど日常茶飯事だった。

    きれいに積み上げられた廃タイヤによじ登り、上から輪の中に入って遊んでいる途中でタイヤが崩れだし、頭から地面に落ちたこともある。

    はしごが掛けられたままの家があれば屋根に登って遊び、中から
    「こらぁーーー!」
    と叱られ慌てて逃げようとして花壇に落ちたりもした。

    冬になれば雪が積もってクッション代わりになるので、屋根から宙返りやバク転をしながら飛び降りて遊んだものだ。

    今から考えると雪の中に何が埋まっているのか分からないのに 3メートルくらいの高さから飛び降り、背中や尻から着地するなど無謀極まりなく、万が一にでも大きな石があったり、杭が立っていたりしたら大惨事になったことだろうと背筋が寒くなる。

    廃屋なども実に魅力的な遊び場で、壁を蹴って穴を開けたりして遊んでいたが、ある日ある時、長くて太いクギが出ている部分を思い切り蹴って足の裏から甲まで突き抜けたことがあった。

    多少の怪我をして帰ろうと、いつものことなので気にも留めなかった母親も、この時ばかりはさすがに慌てふためき、破傷風にでもなっては一大事と病院に連れて行かれたが、サビも少なく比較的きれいなクギであったことが幸いし、簡単な治療をしただけで事は済んだ。

    母親は怪我の程度が軽いと分かって安心したのと同時に怒りがこみ上げてきたらしく、帰宅後にこっぴどく叱られて足に釘が刺さった時より大泣きさせられることになってしまった。

    ある時は吹き矢のおもちゃで怪我をした。

    それはもの凄く大きなストローのような、セルロイドかプラスチックの筒を単に一定の長さに切ってある程度のもので、今の玩具のように安全性など全く考慮されておらず、口に当てる部分ですら何の処理も施されていない代物だ。

    少し離れたところに恐竜のおもちゃを置き、それを狙って吹き矢を飛ばしていたのだが、何せ子供のことなので何が危険なのかなど分かっていない。

    吹き矢の筒を口にくわえたまま走って矢を拾いに行くことを何度も繰り返しているうちに筒の先が壁に当たり、くわえた筒が喉の奥にまで入って肉をえぐった。

    ドクドクと口から血が流れ出し、病院に担ぎ込まれる事になってしまったのは言うまでもない。

    それでも粘膜質の部分は治りが早いのと、若い細胞の回復力で病院に到着するころには血が止まり、殺菌のためのうがい薬を処方されただけで帰宅した。

    そんな怪我をしたにも関わらず、危ないからと吹き矢を捨てられてしまったことに腹を立てて親子喧嘩が勃発するような始末だ。

    いつも怪我だらけだったが、そんなに傷を負っても命にかかわるような大怪我をしたことも骨折をしたこともないないのは、運が良かったのかもしれない。

    そして、丈夫な体に産んでもらったことを感謝すべきなのかも知れない。

  • 記憶 Memory-12

    過去の記憶

    世の中広しと言えども、裸馬に乗って遊んだ経験の持ち主は多くないだろう。

    過去の記憶に書いた三歳の頃に両親が建てた一軒家は、周りに何もない土地を購入して建築したものだったので、すぐ裏に地主さんの家がある以外は辺り一面の田んぼで、夏の暑い日に窓を開けていたらカエルの鳴き声でテレビの音が聞こえないくらいだった。

    数百メートル離れたところに一軒の家があり、そこには小学校の同級生が住んでいて稲作と畑作、酪農と、農業の多角化を進めている家庭だった。

    小さな頃から畑の中を走り回り、のどが渇いたり腹が減れば生っているトマトを採って食べ、再び遊びに没頭するということを繰り返していた。

    春には畑に蝶が飛び交い、育てているキャベツには青虫がモゾモゾしていたし、雨上がりの畑の土にはミミズがニョロニョロしていた。

    夏の田んぼにはアメンボが浮かび、秋にはトンボが群がる。

    都会であれば昆虫採集も一苦労だろうが、夏の終わりに田んぼを歩き、稲穂に向かって石を投げれば太陽光がさえぎらられて暗くなるほどのトンボの群れが空に舞う。

    冬を前に枯れた牧草を刈り取り、サイロと呼ばれる貯蔵庫に運ぶ。

    それは、その家で飼われてる馬や牛の冬の餌となる。

    刈ったばかりで太陽の匂いがいっぱいの干し草を運び、馬のところに行くと実に美味しそうに食べるので、どんな味がするのか気になって 1-2本ほど口に入れてみるが、それが美味しいはずもなく直後にペッペッと吐き出したりしていた。

    その馬は若かりし頃、北海道特有の競馬、ばんえい競走に出ていたほどの実力で、とても大きく力強い体躯をしているが、子供の頃から調教されていたので人懐っこく、何をしても怒らない優しい目をした本当に大人しい馬だった。

    地面においた干し草を食べるには頭を下げなければならないが、その体勢になったらこっちのもので、馬のたてがみを握り、首に足をかけ、体をよじ登って背中に乗ろうとしても、その間も馬はじっとしている。

    小さな子供の体重とはいえ毛を引っ張られたら少なからず痛いだろうに、それでも友達と自分の二人が背中にまたがるまで動かずにいてくれるような馬だった。

    馬の背中は広く大きく、体温でポカポカと温かい。

    馬は子供を喜ばせようとでも思っているのか、しばらくするとパカパカと歩き出し、柵で囲われた中を何周も回ってくれたりする。

    その揺れがあまりにも気持ち良く、馬の背中で寝てしまったことも一度や二度ではない。

    ふと目が覚めると周りが馬糞だらけの場所で立ち止まったりしており、降りるに降りられなくなって必死に馬の尻を蹴ったりして歩かせようとするものの、無視されて途方に暮れたりしたこともあった。

    それでも暗くなる前にはパカパカと歩き出して柵の近くに止まり、子供が降りると馬小屋に向かって歩き出すという、まるでそこまで送り届けてくれたような、そして遊んでやったと言わんばかりの雰囲気を漂わせる不思議な存在だった。

    抜けるような青空のもと、干し草香る乾いた空気と優しい日差しに包まれながら遊び、疲れ果てて寝るという毎日。

    それが、とても贅沢な時間だったと思える。

    今の子供達には経験できない貴重な時を過ごしたものである。